「ジェンダーフリー」バッシング

しばらく前から言われていたことではあるけれど、地方自治体では、せっかく広がりを見せた「男女共同参画」が後退し始めている。それもここのところ急激に。最近、自民党は「ジェンダーフリー教育」の撤廃に向けたプロジェクトチーム(PT)を立ち上げたそうだ。

そこでは、ジェンダーフリーを「過激な性教育」であると批判し、PT座長の安倍晋三氏は「彼らは結婚・家族の価値を認めない。これは社会、文化の破壊で看過できない。」とまで語っている。(ジェンダーフリーが結婚、家族の価値を認めないなんて初耳!)政治家の個人的発言ならまだ見過ごせるが、これこそ看過できない問題だ。

しかし、言われている内容をよく検討すると、まったく的はずれのでたらめだとわかる。過激な性教育と指摘された例も、誤解やこじつけ、事実無根であって、こんなでたらめが、さも事実のように吹聴されているかと思うと、あきれてしまう。たとえば「九州のある高校では男女同室で体育の着替えをしていることをどう思うか」というような質問をネット上のアンケートの質問に入れているが、当の高校に取材すると、「完全なデマ」と教頭は不快感を表したそうだ。(東京新聞7/2)しかし、どんなにでたらめでも、普通はそれを改めて確かめたりはしないから、「ジェンダーフリーとは、そんなものか」と誤解されたままで終わってしまう。

声の大きさと数を頼んで、デマでも流せば勝ち、ということなのだろう。しかし、先人の努力でやっとここまできた男女平等の流れを断ち切られては本当に残念だ。何とか逆風を押し返したいものだ。なぜなら、今年は「男女共同参画基本計画」の改訂の年だからだ。

PTの役職者は同時に「新しい歴史教科書をつくる会」や「神道政治連盟」等で要職を務める人たちだ。「伝統的家族の形態はその典型である。(男は外で働き、女は家事・育児を行う共存関係)。ジェンダー平等はこの文化を正面から否定する」(元郵政省幹部、光原正氏)、というが専業主婦が誕生したのは、たかだか近代になってのこと。伝統的家族形態はむしろ、男女の別なく働かねば食べられなかった中で、「男は外、女は家に」なんて言っていられない時代の方が長かった。

家庭の崩壊は、男が一人で稼ぎ、妻が家事育児と教育を一手に引き受けるアンバランスから来ているのであって、むしろこの働き方を変える必要がある。カウンセリングの現場では、疲れて帰ってくる遅い帰宅の夫と、家計を支えるために働かねばならない妻、会話の時間もゆっくりとれず、それでも夫も妻も何とかすれ違いを埋めようと努力している家族像が伺われる。そしてその陰には、夫婦のアンバランスな関係やストレスのもとで、揺れながらも懸命に生きている子ども達の姿がある。子どももともに家族としての苦労を生きているのだ。こうした必死に頑張っている市民の気持ちや努力を知ろうともせずに、口先だけで都合の良い政策をブチあげる政治家や「識者」に憤りを感じる。

ジェンダーフリーが家族を解体させるのではない。「今のままではやっていけないよ」と模索する中から、自然に解体が始まっているのだ。夫が早く帰宅して家族が一緒に夕食をとることができ、職場でも遠慮せずに育児休暇を申し出ることのできる社会をつくることのほうが、家族を取り戻す近道になるはずだ。

(ふ~、今日は、あまりにむちゃくちゃな論理とやり方の、ジェンダーフリーに対する逆風に、つい熱くなってしまった。)

男女共同参画の意味を正しく知ってもらわなくてはと思う。そしてさらに押し進めなくては。それが女性ばかりではなく、男性にとっても、自分を大事にしつつ、人間としての尊厳を持って生きることのできる社会の構築につながることはまちがいない。

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<この指とまれ>っで頑張ろうね!女性でも男性でも、一緒にね!

参考)男女共同参画局のホームページ ここには希望の一歩がある。

シャラポアへの質問

ウィンブルドンの試合後にインタビューを受けたマリア・シャラポアが、「ファンから求婚されたことがあるか」といった質問が続いた後で「逆襲」した、というインターネットの記事を読んだ。たとえばこんな具合…。

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「(声をかけない)遠慮深い英国男性にがっかりしていますか」とさらに突っ込まれるとシャラポワは「あなたは(大衆紙)サンの記者なの」と逆襲し、「テニスに話を戻しましょう」と打ち切った。

 この日は、「今着ているウェアが最もナイスと思うか」や「ウィンブルドンのテニス博物館があなたのウェアの寄贈を求めているが」など、試合と関係ない質問が多く飛び出した。シャラポワの完ぺきな試合運びの前に、記者たちも質問を思いつかなかったようだ。【山科武司】

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と記者はまとめているが、はたしてそういうことなのだろうか。質問を思いつかなかったから「求婚されたか」とか「今着ているウエア」の質問をしたということなのか。そうではないように思う。たまたま完璧な試合をしたシャラポアが、女性でなおかつ美貌のテニスプレーヤーだったからではないだろうか。

イチローが攻守に絶妙なプレイをしてファンうならせた試合の後、着ていたウエアのことなどで質問を受けたりするだろうか?異性に関するプライベートなことで質問責めにあったりするだろうか?そんな質問をしたら質問した記者がバカだと思われるに違いない。シャラポアが「逆襲」(記事の見出し)したのももっともだと思う。実力を評価せず、外見やプライベートに関わる質問しかされないとしたら、怒って当然。

同時に、相手が男性だったらしない質問=テニスプレーヤーとしての実力と関係のない質問をしてそれを変だとも思わない記者達の感覚には、性差別の意識が潜在している。性差別は(というより差別は)、日常に何気なく存在するから気づかない。と書きながら、私も自分ではそれと知らず、どこかで誰かを差別しているかもしれないと思った。せめてその危険性にだけは敏感でいなければと思う。

この件で思い出したことがある。中国の女性歌手フェイ・ウォンが日本のテレビアナウンサーのインタビューに幾つか答えるうち、記者が次の質問をしたそうだ。「ぼくがもしデートに誘ったらOKしてくれますか?」フェイは答えた。「この場合、もし、ということはありません。本当に誘ってくれるのですか、くれないのですか?」インタビュアーはたじたじとなってしまい、「え、あのー、じゃやっぱりやめときます」だったそうだ。

フェイの場合も、十分準備もなく安直な質問ばかりで、音楽や仕事の話をしない(できない)取材はゴメン、と断っている。

自分を持った女性(本来、女性に限らないが、社会における女性の位置からすると特に女性)の、きっぱりとした発言は気持ち良い。

再び、モヤモヤ

先日「4日間のモヤモヤ」のタイトルで、東京新聞のコラム「言いたい放談」
草野厚氏がNHK女性国際戦犯法廷の番組改変について書いた内容に、
納得いかないことを書いた。

今日の同じコラムで、氏は書いている。「『当時は合法的だった慰安婦問
題』と書いたことが、一部読者の怒りを招いたようだ。」
と書いた上で、前回の自説の正しかったことをさらに補い、冷静に異論を
認めた上での議論を、と書いている。
感情的になった読者が氏に品のない批判を浴びせたということのようだ。

「品のない批判は」良くないとしても、反論した読者の気持ちはよくわかる。

実際、今日のコラムでの草野氏の書き方にはさまざまなレトリックが仕掛
けられているように思う。その巧妙さには不快な思いがする。たとえば、…

「この問題では第一人者の秦氏」と言う言い方。…従軍慰安婦問題の
「第一人者」、とはどういう人を言うのか。まず被害者という当事者と加害
者という当事者、それ以外の第三者としての立場がある。そのうちの第三
者の中の総合的な知識と判断を持った人を第一人者というのなら、判断の
分かれている場合、被害・加害の双方に第一人者がいても良いはず。秦氏
のみをこの件での第一人者と表現することは公平を装った自説の押しつけ
と変わらない。

そして、秦氏の論をそのまま採用して「国内に存在した公娼制度の戦地へ
の適用だから(合法的)」とさらりと書いているが、これもさまざまな議論が
あるが、それについては全く触れないで秦氏の論に任せている。

国家による慰安婦の強制的・組織的な連行があったかどうかも議論が
分かれているが、草野氏は秦氏の書に証拠を積み重ねた反論があり、
「あった」とする吉見義明「従軍慰安婦」には説得力を感じなかったとい
う。

ふ~しぎい~!
今どき、それこそ誰でもちょっとその気になれば、いろいろな情報を読む
ことができる。まして従軍慰安婦の問題は国会でも(ようやくだが)取り
上げられ審議された。当然、資料もある。読もうと思えばいつでも読め
る。そこには生の声がある。でもそれは聞こうとしない人には、絶対に
聞こえない声だし、読もうとしなければ絶対に目に入らない文字だろう。

氏は書いている。「自説に心地よい意見だけしか聞きたくないというの
は、異論を認めない一部『宗教』の類であり、冷静な議論は望むべくも
ない。」私には草野氏も同じ間違いを犯しているように思える。

国家による犯罪は、市民が被害者であり、被害者は被害を受けたことを
ダメージを払いのけて立ち上がることでしか訴えていくことができない。
セクシャルハラスメントの被害を訴えることがどれほど大変なことかを思
えば、軽々に証拠の不十分、説得性がないなどと言えるはずもない。

いっぽう国は自分の加害性を当然隠そうとする。証拠も消すだろう、隠す
だろう。
加害者と被害者との間に圧倒的な力の差があるとき、公平に被害を検
証しようとするならば、両者を同じ土俵で論じるのではなく、声を上げら
れない者、声を上げにくい者に寄り添う姿勢があって初めて、公平に検
証することができると言えるのではないだろうか。

一見、冷静で公平な論調に潜む問題の隠蔽を警戒しないと、問題がな
かったかのように片づけられてしまう怖さを感じる。

私は国会の委員会で、実際にインドネシアに足を運び、被害女性の声
を聞いた田嶋陽子(元参議院議員)さんの報告を聞いたり、女性議員の
質問、当事者の声(議員による代読)も聞いた。

また別の日の委員会では、韓国で入手した詳細な人数を記した資料も
提出された。(韓国・朝鮮の地図に場所の名称とそれぞれの場所で集め
られた女性の人数が記入されていた。)

草野氏が採用する秦氏の言う「公娼制度の戦地への適用」が、実際はだ
ましたり、拉致したりの結果であったことは多くの証言として語られている。
中には母親と市場へ買い物に行った時に母娘共々拉致された12,3歳の
娘さんもを含まれているという。

声を上げてさえつぶされそうになっている被害者達の無念の思いは、同じ
女性としてとても見過ごしにできない。つい長々と書いてしまった。
せめて私は被害女性達の声を心に留めておきたい。
コラムを読んで改めてそう思った。

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