保育園とオスプレイ

本日2013年8月13日の「琉球新報」29面
「飛行機バイバイ」園児なだめる苦肉の策 宜野湾 嘉数 
の記事がツイッターで紹介されていました。

記事には、保育園のベランダの柵に一列になって空を見上げる園児達の写真が。

保母さんが絵本を読み聞かせようと思ってもへりの爆音で声がかき消され、中断せざるを得ないのでしょう。ましてや1~2歳とあらば、大きな音に釣られて一斉にベランダに出てしまうのも仕方ないだろうなと思いつつ、保母さん達のご苦労と心痛に同情します。

そんな状況における「飛行機バイバイ」なのです。
保母さん達は読み聞かせを中断されても、怒りの拳を振り上げるわけにもいかず、何とか無事に、楽しい保育園での時間を過ごさせてやりたいと、ベランダに出た園児達にバイバイと促したのでしょう。保母さん達の「苦肉の策」として。ベランダに並んだ子ども達の後ろ姿とバイバイの声を想像して、何ともやるせない気持ちになります。

度重なる沖縄県民一丸となっての米軍基地返還・オスプレイNOの声も無視し、さらにオスプレイ追加配備に至った国の政策に、手をこまねいているしかない自分にもため息が出ます。

何とか写真が見つからないものかと、ベランダの柵に並ぶ子ども達の写真を探したのですが見つかりませんでした。写真のインパクトってやっぱりすごいですね。「バイバイ」の声が聞こえるようです。

今年の3月には、オスプレイのあまりの騒音に授業が中断され、驚いた園児や小学生が校庭に飛び出し反対を叫んだという記事もあります。こちら

騒音もですが、本国では「未亡人製造機」と揶揄されるほど危険なオスプレイ。墜落事故が起きないことを願うばかりです。アメリカ本土では絶対に学校の上空などは飛べないのですから。

デパ地下

先日、所用で京都に行きました。用事を済ませて、帰りの新幹線までには少し時間があったので、駅近くのデパ地下を覗いてみることにしました。

旅先のスーパーとかデパートの食品売り場は結構好きなんです。その土地の自然の産物に出合えるし、買い物のお客さんも大体がその土地の人なので、土地の空気も感じることができますから。もちろん、食いしん坊だからっていうのもありますけどね。

さて、肉や魚の生ものは無理としても、かさばらない野菜ならおみやげに持って帰ることができるかなと、期待しながら、西日本の野菜を探してみました。

ところがです。
意外や意外。東北や北関東の野菜や果物が目に付きます。地元や西日本産の野菜はそれほど多くない感じでした。流通網の発達て、主要産地の作物は時季を逃さず、日本中に隈無く配送されるのでしょうね。今さらながらすごいなあと思いました。

群馬、茨城、福島、山梨、山形などなど。もちろん、これがデパ地下でなく、地元の八百屋さんやスーパーだったら、もっとバラエティに富んだ地域の農産物があったのかもしれませんが・・・。

結局、ほしかった物は見切り品のワゴンの中に。大分産のピーマンとニラ、京都産の小ナスがおみやげになりました。それから、定番の生八つ橋も(こちらは見切り品ではありませんよ)。

旅先のデパ地下って、手軽でちょっとした発見もあって、私にとってはなかなか面白い所です。

村興し・A君の挑戦

「夜は真っ暗ですよ。川があって、蛍が飛んでます。観光地としては何にもないけど、いいところですよ。ぜひ来てください」目を輝かせて語ってくれたA君。

大学生活最後の夏休み、実家に帰省する直前に、A君はこんなふうに声を掛けてくれた。こちらが返事を決めかねているうちに、実家に帰省したA君は、早速ご家族にそんな計画を話したらしく、次に会ったときはすっかりその気であった。

私の都合で行かれなくなったことを告げると、ひどくガッカリして、「食材まで用意して待ってたんですよ~(笑)」と言われ、ひどく申し訳ない気がした(ホントにあの時はゴメン!今になってみると、無理してでも行っておけばよかったかと後悔しきり)。

「次は必ず行くからね」と約束したのは、近々そんな機会はきっとあると思っていたからだった。

その後、A君は大学院へ進み、卒業。無事に希望の会社に就職した。しかし、にもかかわらず、1年で退社したという。「なんでまた?」と思いつつ、会って話を聞くことにした。

「村に戻って、いずれは村会議員になって村のために働きたい」村興しに乗り出すという。学生時代から思索を深め、細やかな人間関係づくりに奔走し、多方面の人脈を築いてきた彼のことだ。持ち前の行動力を生かして新しいスタートを切るに違いないと、こちらも期待しつつ、話に耳を傾けた。

出会った当初、A君は「地元は何もない所だから、東京に出たい」と言っていたっけ。それに対して「いつか郷里に戻りそうな気がする」と言った私。その言葉を、A君も覚えていた。「いつか戻るって言われましたよね~」としみじみ言う。

それから数ヶ月後、東京と郷里を忙しく往復する日々を過ごしていたA君だったが、たまたま時間が空いたというので、東京でその後の経緯を聞かせてもらった。
「当面は、地元産の野菜を東京で販売する仕事を手伝うことから始めたい。そのために、今日もアンテナショップを開設する準備をしてきたところです」と忙しそうだった。あの蛍の飛ぶ郷里の野菜や物産が都内に並ぶ日も近いと聞き、スタートしたら私も友人知人に広報してあげるからねと、背中を押した。私まで何だかウキウキしていた。

一歩一歩確実に夢に近づいている若者の、希望に満ちた前途を祝福したい気持ちだった。同時に、そんな夢のある話を聞かせてもらう機会に遭遇したことをありがたいとも思った。「じゃあ、がんばって!その後の話、楽しみにしているから」と握手をして別れた早春の昼下がり。2011年3月4日のことだった。

それからちょうど1週間後、3月11日に東日本大震災。直後に福島原発が事故を起こし、10キロ圏20キロ圏と避難区域が広がった。その中には、A君が村興しをめざした郷里も含まれていた。

☆ ☆ ☆

それから半年後、都内で野菜を販売するA君の姿があった。本来なら山ほど買って応援したいところだが、できなかった。放射能の数値の高い野菜が市場に出ていることをネットの情報で把握していたからだ。「悪いけど買えない、ごめんね」
彼の避難先の線量も決して低くはない。楽観的な彼に、私が把握している事実と、私なりの見方を伝える。地元のために何かしたいという彼の意思は変わっていない。応援したい私の気持ちも変わっていない。けれど、圧倒的な現実の変化の前に、彼も私も、無力としか言いようがなかった。

その後もA君の奮闘は続いている。目を輝かせて前途の夢を語る様子は変わらない。状況の断片を聞かせてもらいながら、彼の夢が単なる夢に終わらないためには、私に何ができるのだろうと自問自答している。

☆ ☆ ☆

村の感謝祭 
自然と一体となって育まれてきた伝統行事や食文化など、村の豊かな営みが偲ばれます。改めて失ったものの大きさを思わずにいられません。同時にこれだけのものを奪ったものへの憤りも感じないではいられません。

下に掲げたホームページの違いが村の現在を物語っていますね。生活のすべてを根こそぎ奪われるとはどういうことか、少しは私にも想像できる気がしました。近いうちに、A君とまた連絡をとってみたいと思います。

現在のホームページ  

事故前のホームページ

本のご紹介「までいの力」

なぜ村民の皆さんが村を離れたくないのか、わかった気がします。

福島原発事故後の放射能汚染により、計画的避難区域に指定された飯舘村。写真で見ても、素敵なところだなあと思っていましたが・・・。実はそれだけではありませんでした。日本で最も美しい村連合(初めて知りました)に加盟し、意欲的でユニークな事業をさまざま展開してきた村だったのですね。

一例が、村営の本屋さん。全国を探しても公営の本屋さんってあるのでしょうか?
飯舘村の村営本屋さん
可愛い本屋さんですね。行ってみたくなります。全国から絵本を譲ってもらい、読んでは次に回す、本のリレー運動も募集しているとのことです(今後、こういう事業もできなくなってしまうのですね)。

こうした村のさまざまな取り組みをまとめた本が出版されました。「までいの力」(本の収益は飯舘村の復興に役立てられます)

飯舘村のホームページには、こんなふうに書かれています。
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までい」とは、 「丁寧に、心をこめて、手間ひま惜しまず、じっくりと」 などの意味をもつ私たちの地方の方言です。 私たちは、人と人の関わりを大切にしながら、「までい」に村づくりをしていきたいと思っています。

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フォトジャーナリストの森住卓さんのブログでは飯舘村の様子が報告されています。日を追ってマスコミの報道は少なくなっていますが、住民の方達の苦労は終わっていないどころか、今この瞬間の問題として存在することがわかります。

地面に掘った深い溝が真っ白に埋まっている=それは廃棄するための原乳。毎日毎日、絞っては捨てるを繰り返す過酷な現状。5月30日の日記には引っ越し(避難)の決まった一家の荷造りの様子。小さいお子さんも一緒にお手伝い。などなど、事故という非日常と、日常の交錯。危機感を忘れないために、ときどきブログにお邪魔しようと思います。

飯舘村のユニークな事業の一端は村のホームページからも垣間見られます。「暮らし普及センター」をクリックすると、エコハウスが登場。ピザ釜があって、材料と薪を持って行けば、誰でも無料で使えるそうです。満月ライブやヨガなど、小さな村の魅力的なイベントも。

この本を紹介してくれた方のメールにはこうありました。「感動しました。そして悲しくなりました。どこよりも早く大切なことに気づき実践していた村に、どこよりも酷い災いが降りかかったのですから」と。本当に、何という皮肉な運命なのでしょうか。

それでも「までいの力」は、これから日本人が立ち上がる強力な手がかりの一つになっていくはずです。まず本を買って応援かな?

可愛いナット!

Image07922北海道のおみやげです。

何とも可愛らしい荷姿でしょう?ちょうど手のひらに載るくらいの大きさです。

ちゃんと紐で縛って、検札まで付いていますよ。

そう言えば昔の小包には、荷札というのがついていました。母や祖母が荷造りして、郵便局に持って行ってましたっけ。ちょうどこんな感じでした。

え?中身ですか?

中身は、北海道産の小豆で作った甘納豆です。久しぶりにいただいたら、甘納豆ってこんなに甘かった?と思ってしまいました。

最近では冷蔵庫に入れて早めに食べきる和菓子が多く、舌がそうした和菓子や洋菓子に慣れてしまっていたのですね、きっと。

常温で保存がきくお菓子は、しっかり砂糖漬けにしなくてはなりません。だから、甘い!そう、昔ながらの甘納豆なんです。

味わいつつ、おいしくいただいています。

ところで、この荷姿は、一つひとつ包んでは縦に二本、横に一本紐を掛け、検札を針金で留める…という作業をするわけです。う~ん、エライ!

お気に入りのお店はここです。(いつか書いた気が…)

ジュゴンのアピール

沖縄から帰って3ヶ月。なんていうとずっと行っていたみたいですが、ただ4日間旅行しただけですよん、3ヶ月前にね。でもこの3ヶ月の間に沖縄は少しずつ状況が変わってきているみたいで気になります。

沖縄では最近、米軍の迷惑行為や危険行為がエスカレートしてきているそうです。たとえば基地周辺の北部だけでなく、友人のばるタンさんの住んでいる南部でも米軍ヘリが前よりうるさくなってきたとか。

米軍はヘリでコンクリートを運ぶ訓練なんかをやっているそうです。アメリカ本土では危険でできない訓練を沖縄ではやっているのです。つい先日も、一般道路を走行中に米軍車両が故障して動かなくなったそうです。そうしたら車両から降りてきた兵士たちが、草むらに隠れて住民に銃口を向けていたそうです。たとえ銃弾が入っていなかったとしても、その恐怖は想像がつきます。これではもう戦場です。

そんな中、知事が基地を視察した日、最近めったに見かけなくなったジュゴンが、珍しく泳いで「お出迎え」だったそうです。基地ができたらジュゴンは住めません。…ジュゴンのアピールだったのでしょうか。

長老のことば

       ☆☆☆ (ボクの、ワタシの未来)Baby1

    ☆☆☆

地方の、ある町に、国が後押しする大きな仕事の話が持ち込まれました。町では大喜びで賛成する人たちと、環境と安全性に不安があるからやめようと反対する人たち、両方の意見が生まれました。そして町の議会には、賛成派と反対派、双方から陳情書が寄せられました。

ところがなんと、議会は賛成意見も反対意見も話し合わないことに決めてしまったのです。つまりどちらの陳情書も議会でとりあげないことにしてしまったのです。これらを見ていた町の長老は、町長に手紙を書きました。

「目先のことにとらわれず、将来この町が良い判断をしたと誇りを持てるような町としての決定をしてほしい。町長はその決断から逃げてはいけない。」(私の意訳、→正確にはこちら

それから程なく町長は「国の仕事の受け入れに応募しない。」と議会で発言し、町は今まで通り、自然環境を守って、地域の産業と文化を育てていく道を選びました。

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これは高知県津野町でのごく最近の話です。↓こちらのブログです。
「それがたまるか!土佐の高知に『核のゴミを埋め捨て』かえ?」
(地方にどのような圧力がかけられ、それをどのように切り抜けたか。普通の市民の目線で、わかりやすく書かれています。)

実際には長老一人でなく、40名の連名による申入書です。
津野町は日本で最後の清流と言われる、四万十川の流域に位置する町です。国は、高レベル放射性廃棄物の処分場をつくらないかと持ちかけ、あの手この手で攻めたてました。

それに対して、住民の反対運動、周辺議会の反対決議、町の長老達の進言、これらが功を奏して危険な施設の設置をようやく免れたのです。
原子力発電環境整備機構(NUMO)というのが、「絶対安全です」と言ってくるのですって。放射能の危険性は半永久的で、絶対安全なんてことはありえないのに。

国は、年中こうやって、日本のどこに原発関連施設を作ろうかと、経済的に苦しい地域にねらいさだめて、お金を落とそうとしています。そこで犠牲になるのは生命と環境と人のつながりです。そうした中で、津野町の皆さんの努力と成果に励まされます。

世界的規模で原子力推進に流れが変わりつつあるとの報道もあります。(ヤフーニュース「ヒジサンケイ ビジネスアイ」)
本当にがっかりです。
(でも、マユツバで聞いておきましょうね。こういうニュース自体、あきらめさせる手かもしれないから。→ 疑い深く、性格悪くなっていきそう。 ^ ^;)

世界の流れがどうであれ、津野町のような地域ごとの地道な成果は、人の心や、生きていることそのものの意味を改めて思い起こさせてくれます。未来の子ども達のために、進むべき道は一つ。あきらめず、どこまでもあきらめず、やれることをやりましょう。(って、自分に言ってますね)

沖縄(6)…平和の礎(いしじ)

Ishiji2 Ishiji1横文字の刻銘は沖縄戦で戦死したアメリカ兵の名前です。

敵も味方もなく、沖縄戦でなくなったすべての方の名前を刻んであります。お名前を見つけて、紙と鉛筆で写し取って帰られる方もおられるとのことです。遺品もなく、この刻銘がせめて唯一のよすがという方のおられることを思うと、言葉を失います。

Ishiji7

平和の礎(いしじ)
政府の補助が減らされて経営難だとか。そこで左は寄進箱。若い女性が二人募金していました。私もほんの少しですが。

Ishiji3

Ishijibaru

ご遺族の名前を探すご年配者を案内する、ばるタン。ばるタンのブログ

Dangai2

米軍に追いつめられた人たちは、50mというこの断崖から次々に飛び降りて亡くなりました。「投降するな」「捕虜になるくらいなら死を選べ」と教え込まれていたからです。

………

Dangai3

Dangai8

 

………

Kinenkan1遠くに見える建物は「平和祈念資料館」。
時間切れでまた今度。   

 

……      

感謝、感謝!の、ばるタンご夫妻。
Barugara1この日はご主人が運転してくださいました。途中、家庭料理「三姉妹」というお店で頂いたお食事、飾り気がないけど素材の味が生きていてとてもおいしかったです。三姉妹が厨房で仲良く包丁を握っていました。

        夜の部は、Aa1 「RYUKYU民族の祭典」
会場周辺は大勢の家族連れでごった返し、けっこうな人出。会場に続く陸橋の入り口には、11月の知事選挙の仲井真候補の黄色の旗が数本、ウチワを配ってました。しばらく行くと、今度は野党共闘候補の糸数けいこさんが、握手しているではありませんか!

糸数陣営の応援に行きたいくらいだったので、こんな所で会えるとはと、嬉しくなって握手。「関東でも応援していますよ」と伝える。ご主人も一緒に応援していらした。何かこっちでできることをやれたらと思う。

芝生の一番前に座ったので、臨場感満点。エイサーはホントに元気になります。指笛の合いの手にもほれぼれ。

ああ、今回も、食べ損なったアレとコレ。でも、大満足の旅でした。お世話になった皆さん、出会った皆さん、ありがとう。

沖縄(5)…ひめゆり

教育基本法が国会で審議されています。
「変えてはならない」、改めて強く思わずにいられません。理由は…↓

 Himeyuri1

「ひめゆりの塔」
静かな空間に見えますが、実はこの手前には見学者が大勢。

Himeyuri2

病院は、ちゃんと建物があったわけではないんです。この  シダの葉の下の黒く見える部分が、壕の入り口でこの奥に病院がありました。この暗い地下壕が病院だったのです。

まずそのことがショックでした。長いことそのことを知らなかった自分にも。映画「ヒトラー~最後の12日間~」にも、地下の病院が出てきます。でもあれは、狭くても一応地下に造られた病院でした。この沖縄戦の病院は、地下の長い穴(人のやっと立てるくらいの高さと、一間幅くらい)に、ベッドを壕の壁に沿って並べただけ。それが30m。そこで手術もしたのです。

Himeyuri3

資料館では、あまりにも多くのことを感じたのでとても書ききれません。知識も気持ちも整理し切れていないし…。

「ひめゆり平和祈念資料館」
(お時間がありましたら、ぜひスキップしないで見てくださいね。とても丁寧に作られているサイトです。)

資料館全体がとても配慮された展示で、ひめゆり同窓会の「伝えたい」という意志がひしひしと伝わってきます。
でも一つ残念だったのは、中高生の団体見学者が、展示写真を見て冷やかしている言葉を聞いたことです。一方では、語り部の人の言葉に、真剣に耳を傾けている若者もいますから、訪れる意味はあると思いますが、伝えていく難しさを感じました。やはり事前学習など、教育の一環としての工夫が、もっと学校側に必要なように思いました。

資料館を見学して感じたことを二つだけ書きます。

教育の成果はある日突然現れるのではなく、長い布石があってこそと思いました。1900年代初頭から、忠君愛国の精神を養う教育がされ、その「成果」が太平洋戦争・沖縄戦で「ひめゆり部隊」となったわけです。気づかぬうちに教育される怖さは今に通じます。

また、国が国民を一気に動かそうとするときに、一番簡単に命令を行き渡らせるシステムの一つが学校なのだと痛感しました。14,5歳から19歳までの男女が、自ら進んで国のために命を差し出すシステム、それが当時の学校だったのです。

教育基本法が国会で審議されています。
「変えてはならない」、改めて強く思わずにいられません。

沖縄(4)…辺野古

Henoko5 Henoko6 テント村の掲示板には、朝日新聞の投書も切り抜いて貼ってありました。例の、私がT記者に「マスコミで沖縄のミサイル搬入を書いてほしい」とお願いした直後、ある若い女性の方から同じ趣旨の投書があり、それをT記者が編集して掲載されることになったあの投書です。

琉球朝日放送のテレビ番組「海にすわる」にも登場されているおなじみのKさんもいらっしゃいました。ご高齢ですがお元気そうでした。

NO BASE HENOKO ( 辺野古テント村の様子)

この日は、バスが次々とやってきました。浜辺を見学して、お話を聞いて、丁寧に書かれた寄せ書きを持ってこられたりと、皆さんとても熱心で、勇気づけられました。

私がテントの下でお茶を飲んでいたら、テント村の常連さんみたいな感じで、バスの見学者の方達から写真を撮られてしまいました。(実際はテント村で頂いた、差し入れの天ぷらをつまんで一休みしていただけなんで…、すみません。)

ほんと、のどかでいいんですよ。ばるタンが「天願桟橋の座り込みに皆さんをご招待したい」って言われた意味がよくわかりました。
心地いいんです。
とっても自然に、人が緩やかにつながっている感じで。

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(左)前回来たときにばるタンが結んだリボン(ジュゴンの絵)だそうです。
(右)米軍が張り巡らした鉄条網にびっしりリボンが結ばれている。

Umi この海をぜったいに守りたい!

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