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ひさしの穴は

さて、先日のつづき、子ども時代に私の廻りにあった戦争の名残について。

一番直接的で、鮮明な思い出は、家の軒先のトタン板に穴が空いていたことです。子どもながらに、何であそこだけボロボロなんだろうといつも不思議でした。母の話では焼夷弾が落ちてできた穴だということでした。

知らぬが仏ですよね。「あ、そうなんだ」と聞いていましたから・・・。
今思えば、よく家が焼けずに残ったものだと思います。

線路脇に海軍の火薬庫があったため、街は米軍の標的になりました。

そのため海岸線には米軍機を迎え撃つために、高射砲が設置され、戦後はコンクリートの土台だけが残っていました。3台くらいあったかと思います(もっとあったかも)。子どもの私から見ると当時はずいぶん大きく思えたものですが、本当はどのくらいの大きさだったのでしょう。

海に行くたびに、私たちはよくそのコンクリートの台によじ登っては上で遊んでいました。ですから子どもが走り回れるくらいの広さはあったはず。台座には錆びついた金属の一部が残っていただけでした。

街は空襲に遭って、一面焼け野原になったというのはよく母から聞きました(調べてみると1945年の2月です)。駅前から海岸までまっすぐ延びる道路がとても広いのは、全部焼けてしまったために、戦後の区画整理によるものと聞いています。

ある時、友達の家に遊びに行くと、庭の雑草の陰に地下に下りる狭い階段がありました。防空壕の入り口でした。階段を下りると中は奥行きがあって、せまくて暗かった、そんな印象しかありません。

防空壕と聞いても、「聞いたことはあるけど・・・」というくらいの印象しかありませんでした。防空壕のことは後にも先にも、このお友達の家でしか見たことはありません。

戦争につながる思い出といえば、あとは傷痍軍人さん。包帯を巻いたり三角巾で腕をつったり、松葉杖をついたりした兵隊さんを町中で時々見かけました。首に募金を入れる箱を下げていたように思います。

アコーディオンでもの悲しい曲を弾いて、お金を恵んでもらっている人もいました。私は何だか恐いような異様な感じがして、そうした兵隊さんたちのそばを急いで通り抜けていた気がします。戦後10年以上を経ても、そんな何とも言えない独特の空気が残っていた時代という気がします。

今思うと、中には演出でそれらしく装った物乞いもいたかもしれませんが、戦争が終わったとたんに無一物で放り出された兵隊さんや、大陸から引き上げてきたばかりという人もいたでしょうから、実際、物乞いしなくては生活できない人もきっと少なくなかったのだろうと思います。

こうしてみると、私の記憶はあんまりないですね。
戦争体験世代がいなくなったら、私の世代ではすでに伝えられないのだなあとよくわかりました。

子や孫に聞かせるおばあちゃんの一人語りになってしまいました。
ハイ、オシマイ。

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