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シャラポアへの質問

ウィンブルドンの試合後にインタビューを受けたマリア・シャラポアが、「ファンから求婚されたことがあるか」といった質問が続いた後で「逆襲」した、というインターネットの記事を読んだ。たとえばこんな具合…。

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「(声をかけない)遠慮深い英国男性にがっかりしていますか」とさらに突っ込まれるとシャラポワは「あなたは(大衆紙)サンの記者なの」と逆襲し、「テニスに話を戻しましょう」と打ち切った。

 この日は、「今着ているウェアが最もナイスと思うか」や「ウィンブルドンのテニス博物館があなたのウェアの寄贈を求めているが」など、試合と関係ない質問が多く飛び出した。シャラポワの完ぺきな試合運びの前に、記者たちも質問を思いつかなかったようだ。【山科武司】

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と記者はまとめているが、はたしてそういうことなのだろうか。質問を思いつかなかったから「求婚されたか」とか「今着ているウエア」の質問をしたということなのか。そうではないように思う。たまたま完璧な試合をしたシャラポアが、女性でなおかつ美貌のテニスプレーヤーだったからではないだろうか。

イチローが攻守に絶妙なプレイをしてファンうならせた試合の後、着ていたウエアのことなどで質問を受けたりするだろうか?異性に関するプライベートなことで質問責めにあったりするだろうか?そんな質問をしたら質問した記者がバカだと思われるに違いない。シャラポアが「逆襲」(記事の見出し)したのももっともだと思う。実力を評価せず、外見やプライベートに関わる質問しかされないとしたら、怒って当然。

同時に、相手が男性だったらしない質問=テニスプレーヤーとしての実力と関係のない質問をしてそれを変だとも思わない記者達の感覚には、性差別の意識が潜在している。性差別は(というより差別は)、日常に何気なく存在するから気づかない。と書きながら、私も自分ではそれと知らず、どこかで誰かを差別しているかもしれないと思った。せめてその危険性にだけは敏感でいなければと思う。

この件で思い出したことがある。中国の女性歌手フェイ・ウォンが日本のテレビアナウンサーのインタビューに幾つか答えるうち、記者が次の質問をしたそうだ。「ぼくがもしデートに誘ったらOKしてくれますか?」フェイは答えた。「この場合、もし、ということはありません。本当に誘ってくれるのですか、くれないのですか?」インタビュアーはたじたじとなってしまい、「え、あのー、じゃやっぱりやめときます」だったそうだ。

フェイの場合も、十分準備もなく安直な質問ばかりで、音楽や仕事の話をしない(できない)取材はゴメン、と断っている。

自分を持った女性(本来、女性に限らないが、社会における女性の位置からすると特に女性)の、きっぱりとした発言は気持ち良い。

炎天下のクチナシ

050625_1729001 昨日の炎天下、芳香を放っていた通りすがりのクチナシ。白い花がクッキリと、香りも強い日射しにまけないくらい濃厚で、それがむしろ爽やかでした。でも、肝心の写真は、イマイチ、イマ2? 汗で手もぶれました、昨日の暑さ!炎天下に芳香を放って咲き競う植物の力強さには心を打たれます。

リーディングバトン(Reading Baton)というのがあるのですって…。友人のazamikoさんから思いがけずバトンをいただいたのですが、何しろあんまり本は読んでいないので…、思いつくまま。

①よく読むブログ…友人のブログ以外では、最近ジャーナリストの綿井健陽さんがブログを始めたのでときどき。

②好きな作家…まどみちお レオ・レオニ

③思い入れのある本…中学生の時に読んだ「メアリー・ポピンズ」(P・Lトラヴァース)。「女の選択-生む・育てる・働く」「見えてくる女の水平線」(2冊とも高良留美子)

④手放せない、というより時々読み返す本「海からの贈り物」(アン・モロウ・リンドバーグ)落合恵子訳(吉田健一訳も)。「あたらしい憲法のはなし」(文部省/童話屋)

⑤最近買った本…「にほんご」(福音館書店)

次にバトンを渡す人…、もし読んでくださっていたら登録ブログの、PFCさんTamyレポートさん、それにあをねこさんに。ご迷惑でしたらパスしてくださいね。お遊びですので気になさらず。

慰霊の日

今日、6月23日は沖縄戦慰霊の日。

琉球新報の「沖縄戦新聞」は、昨年7月から月一回の連載で、現在の視点で当時の様子を伝えたらどうなるかという試みをしている。大本営発表でない新聞記事をというわけだ。(モノクロ画像、右上の新聞紙面をクリック。PDFファイルです)

一方沖縄タイムスも「戦後60年平和ウエブ」を立ち上げている(トップページ下方の「戦後60年…」のバナーをクリック)。語り継ぐ未来への一歩を伝える記事<連載[祈りをつなぐ](2)「ひめゆり」から未来へ 新しい語り部 体験なくとも思い熱く 欧州で大事さを認識>など。

以前、参議院議員(元沖縄県知事)の太田昌秀さんの講演を聴いたことがある。太田さんは話の中に何度も出てくる犠牲者の人数を、その度に「何十万…何百何十何人」と語られていたのが印象に残る。概数でくくれない人の命だ。

60年前の戦争、そして連日のように報道される、現在の「生命にまつわる」悲惨な事件。そんな中、「いのちってなんだと思う?」と訊かれた小学生の言葉。「いのちって、つながりじゃない?」をふと思い出し、勇気づけられる。

15才の少年の事件、若い人に意見を聞いたら「分かる気がする」と言った。「ずっとたまっていたんだろうと思う」と。多くの同世代の若者に、濃淡はあるが理解できる心境なのかもしれない。教育関係者は「普通の子だった」と言う。だから問題の根は深い。

こういう日は気が重い。楽しいことを探そうとしても気が乗らない。こういうときはしかたない、そのままの自分でいる。明るいことの書けない日は書くのをやめようかと思ったけれど、まあ陽もあれば陰もあるということで…。それでも食事どきは、シークレットガーデンのアルバムで気分転換、ちょっと元気、そしてこうして書かせてもらってだんだん元気になる。さあ、明日も気分一新、若者の一歩を応援しよう!(なんて、自分が応援されてるようなものだけれど…)


キャベツの値段

キャベツが採れすぎて大暴落、農家はブルドーザーで処分しているとニュースが伝えていたのは一昨日。農家のオジサンが「つぶすときはキャベツの悲鳴が聞こえるようだ」と嘆いていた。今は、つぶすといってもグチャグチャにするのでなく、細かく粉砕される感じで、ブルドーザー(?)が通った後の畑は、薄緑のフカフカの絨毯のようだった。

そして今日、スーパーにはキャベツが山のように積まれて一個なんと88円!それも大きくて、巻きの堅い上等のキャベツが。普段ならゆうに倍はする。ブルドーザーにつぶされた光景を思い出し、つい買ってしまった。私が一個買ったからといってどうなるものでもないのに。そして夕食には献立とは関係なく、千切りキャベツの一皿を。(千切りキャベツを目にすると、豚カツかコロッケがあればなあと思うのは条件反射?)

一生懸命育ててさあ収穫という段になって、自分でつぶさなくてはならない農家の人の気持ちってどんな思いだろう…。同じようにかつて牛乳が捨てられたりしたこともあった。システム上、仕方なくおこってしまうことなのかもしれないが、何とかならないのかなあ。「もったいない」し、作った人の気持ち・意欲にも大きく影響する。地域で採れた物を地域で消費しているときにはなかった問題なのはまちがいない。

そういえば、お世辞にもきれいとは言い難い雑然とした、けれど面白い店が近くにある(歩いて20分)。野菜を中心に食品を売っている。私は安いのと思いがけず掘り出し物に巡り会うので、ときどき寄ってみる。近隣の農家で採れた野菜を中心に関東近県の物を扱っている。無造作に束ねたり、簡易包装で台の上に並んでいる。レジ袋一杯の野菜を買っても500円とか700円とか、1000円は絶対に行かない。枝豆一束88円、小ぶりの桃は2個150円(見た目はいびつな形だがおいしかった)、長ネギ一束55円とか。トマトは中くらいの大きさが5,6個一袋で150円。緑と赤のコントラストが鮮やか。新鮮な形と色つやから、今朝まで畑の枝になっていたに違いない。

こういう店で姿形とは関係なく、おいしい野菜や果物を見つける楽しさはまた格別!もちろん千切りキャベツもおいしく頂いた。当分キャベツ料理が続きそうだ。

アニメ「雪の女王」

テレビはふだんほとんど見ないが、たまに夜7時のNHKニュースをつけることがある。今日もニュースをつけて何となくぼんやり見ていたら、ニュースが終わって番組がアニメーションの「雪の女王」に変わった。今日は第5話らしい。

主人公のゲルダという女の子が一人旅の途中、わずかなお金をすべてなくしてしまい、途方に暮れていると、優しい宿の主人夫婦が泊めてくれる。ところがその宿にはゲルダが旅の途中で出会ったインチキ商人(詐欺師?)の男も同宿していた(男はゲルダをだまして薬を高く売りつけていた)。明け方近く、男はホテルのフロントから客の貴重品を盗んで逃げ出そうとする。一部始終を見てしまったゲルダは男の前に立ちふさがって言う。

「おじさんは私をだましたけど、本当は優しい人だと思っていた。おじさんが優しい人だとわかったらここをどくわ。」と言って目に涙をためながら、必死で行く手に立ちふさがる。そして自分の履いていた靴を脱ぎ、差し出す。「コレ、お婆さんからもらった大事な靴。これをあげるからみんなの大事な物を返してあげて!」

「そんなきたねえ靴なんかもらったってカネにならねえ!」そう言いながらも、男はものすごい勢いで盗んだ金品をフロントに返しに行き、ベッドで毛布をかぶって号泣する。(このへん、もろアニメ!)

翌朝、ホテルを出たゲルダと商人。男はゲルダに一枚の地図を渡し「旅には欠かせねえ地図だ、とっとけ!銅貨3枚だ」と言ってゲルダの前に手をさし出す。あわててポケットを探るゲルダに、「簡単に払うんじゃねぇ。カネはもっと大事にしろ。この間もらい過ぎたから、コレはタダだ。で、この前の薬の代金は帳消しってことだ。」

「オレの娘の名前もゲルダってんだ。これだけはホントだ。」と言って去っていく男の後ろ姿に、「おじさんありがとう!」と手を振るゲルダ。

ザッとこんなあらすじだ。子どもの頃に読んだはずだがすっかり忘れていた。フ~ン、アニメ?なんて横目で見ていたのに、結局最後まで見てしまった。

「事実は小説より奇なり」とばかり、ショッキングな事件や、刺激的な劇や映画に囲まれている毎日。美しい心が人の心を動かすという素直な感動さえ忘れがちだ。美しいものに触れると自分の中の共鳴する心が目を覚ます気がする。原点に帰れと教えられたようだ。おとなの私でもそうなのだから、子ども達にはきっと、もっともっと美しいものに触れる機会が必要なのだと思う。

ちなみにアンデルセンは私と同じ4月2日生まれ、で、私が幼稚園の学芸会でやったのが、ハンス(アンデルセンの名)のお母さん役(病気の母親が出かけるハンスを送り出す場面、ベッドの中から「ハンス気をつけて行っておいで」と言うのを忘れて、先生が舞台袖から小声で教えてくれ、客席まで聞こえて大笑いされたのが忘れられない思い出だ。)

だからアンデルセンは私にとって、グリムやほかの童話作家よりも親しみのある存在だ。今年はアンデルセン生誕200年という。もう一度童話を読み返すのもいいかな。

注)NHKの番組紹介では、男は「怪しい商人」となっている。私の感じ方ではミステリアスではなくインチキの怪しい方で「インチキ商人か、詐欺師」。

ホントに文殊(もんじゅ)?

「文殊の知恵」という言葉があります。これを「もんじゅ」と書くと、途端に私にはイヤ~なイメージが浮かんできてしまうのです。高速増殖炉「もんじゅ」のことです。高速増殖炉というのは簡単に言うと、原発で使うウランの替わりにプルトニウムを燃料として発電しようという、そのための実験炉です。(燃料:実際に燃やすわけではないけれど仮にこう表現しておきます)しかし、コスト・技術・安全性への疑問などから、今では世界が撤退している技術ですが、いまだに日本だけがこれにしがみついています。

(参考:「もんじゅ」推進側のサイト、建設中の写真が載っています。こんな写真を撮るためにお金をつぎ込んでいるんだ!税金や郵便貯金もここに使われるのかしら?「核燃料サイクル開発機構」のサイト)

その「もんじゅ」を巡って住民が訴訟を起こし、福井地裁で負けて名古屋高裁に住民側が上告しました。その結果、2003年1月に、珍しいことに原発がらみの裁判では初めて、住民側が勝訴しました(名古屋高等裁判所)。しかし、すぐに国が上告して、その結果最高裁判所の判決がこの5月30日に出されました。結果は、原告住民側が敗訴でした。

ほとんどどの分野でも、最高裁まで行くと国が勝つようになってしまっていますね。こういう裁判のシステムとはなんなのでしょうね。国の行為を裁判所が「それでいいよ」と追認しているだけでしかないですね。個人の権利や利益に目配りのない裁判では三権の独立の意味がありません。「最高裁の判決だからまた今度も負けるだろうな」と思ってしまう自分が恐い。これってほとんどあきらめ!

でも今回の最高裁の判決の違法性をついた弁護士さんの見解を読んで、ちょっと光が見えた感じがしました。それはこういうことです。

すご~く簡単に私なりの言い方をしてしまうと、最高裁判所の判断の方法が間違っているということです。最高裁判所というところは地方裁判所や高等裁判所と違って、何が事実かを争う所ではないのだそうです。何を裁くかというと、憲法に合致しているかどうかだけを判断するのだそうです。ところが、今回5月30日に出た判決は、高裁の仕事であるところの事実認定をやりなおしており、権限を踏み越えているのだそうです。

なぜこう言うことが起きたかというと、結局、高等裁判所で住民側が勝っているので、それを翻すために、わざわざ高裁の判決にまでさかのぼって、事実認定のやり直しみたいなことをやったということなのでしょう。こそくですねえ、やることが。

よく選挙の時に、最高裁判所の裁判官の罷免とかいって、ふさわしくないと思う人には×をつける(でしたっけ?)投票用紙が配られますが、こういうことがあると、すぐに投票用紙がほしいですね。こういう裁判の判断が出るたびにチェックするようなシステムになっているといいかも。何ヶ月も経てば忘れてしまいますもの。

ちなみに裁判官は、泉徳治 横尾和子 甲斐中辰夫 島田仁郎 才口千晴の5名の方々。しっかりチェックしておきましょうね!生命に関わる重大事を決定した方達ですから。

市民側からは再審請求する方向で準備が進んでいる様子です。今だけじゃない、子どもや孫にもその先の先までも、何万年にも渡って被害の出る危険性の高い話です。しっかり応援していきたいです。直接は何もできなくても関心を持つだけでも違うと思うので。本当は地方の問題なんかじゃない、私自身の問題なのに人任せのようで申し訳ないなあと思いつつ、ここに書くだけで、ごめんなさい!

植物のようにスクスク

今日は暑かったですねぇ。アリウムも一気に丸くなってしまいました。ちょうど小学生くらいの子どものたなごころを、ホワッと開いて乗せたらスッポリ収まるくらいの大きさ。

植物ってげんきんですね。室内の日陰にずっと置いていた大きな植木鉢を思い切って窓辺に移してやったら、グングン元気になって葉の色つやも良くなり、全体がエネルギーに満ちてきたのがよくわかる。当たり前のことだけれど、改めて生き物と環境の密接な関係を感じる。

人間もきっと同じですね。社会のいろいろな出来事も、環境や条件が人間に合わなくなると不都合なことがいろいろ出てくるのだと思う。昨日も、インターネットの知識で爆弾を作り、教室に投げ込んで友人にケガを負わせた少年の事件がニュースになっていた。植物なら良い条件に鉢を動かしてやれば問題は解決するけれど、人間はそう簡単にはいかない。そう思うと、子どもや若者の事件は特に、環境要因が大きいから、悲惨であり、悲しい。

子どもがスクスク育つことのできる環境、おとなにとってだってそんな環境がいいにきまっている!!!                           

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ファンタジー

東京新聞日曜版に「診察室日誌」というコラムがある。佐賀純一さんという開業医で作家の人が書いている。私はこのコラムが好きだ。たびたび、「いいなあ~」という話が載っている。たとえば先週の日曜日は「秘密の切符」。(2005/6/5の新聞から抜粋)

( )内は私の補足。

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「この子には困ってるんです」と少年のお母さんは言った。「理屈っぽくて、勉強しなさいと言うと、なんで勉強するの?と聞き返すんです」

「僕も同じだったなあ」

(と先生は自分の子どもの頃のことを話し始める。…略…そして少年に向かって、)

………

「勉強すると、すごい切符が手に入るんだ」

「どんな?」

「時間をワープする装置に乗る切符さ。壁に絵があるだろう」僕は等身大の阿修羅像を指さした。

「誰が描いたと思う?」

「先生?」

「そうだよ。千三百年タイムスリップして、あの人を見ながら描いたんだ」

「嘘(うそ)」

「ほんとだよ。人間は勉強すると時間を超えられるんだ。僕は仏像を描きたくてね、いろいろ勉強した。毎日何十枚もスケッチした。すると、だんだんいい形になってきて、最後には『手はこれでいいかな』と聞くと『うん、それでいいよ』と返事をするようになったんだ」

「ほんと?」

「ほんとさ。人間はね、どんな難しい本でも、繰り返し読んでいると、いつの間にかその世界に入り込んじゃう。昔々の人と話したいなと思って何年も勉強してると、いつの間にかその時代にスリップして話ができるんだ。勉強すると、自然にそんな切符が手に入るんだよ」

「勉強しなかったら?」

「切符は無理だな。狭いこの世で暮らすしかない。あっちをうろうろ、こっちをうろうろして年取るんだ」

「でも、勉強したら必ず切符がもらえるの?」

「いつかはね。君が手に入れたら、必ず先生に見せてくれよな」

「うん、そうだね」

少年はキラキラ光る目で約束してくれたのだ。

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危険な技術はNO!

(おことわりというかお詫びというか)

ときどきページがなかなか開けないときがあるかもしれません。そのようなときは、お手数ですが、しばらく時間をおいて再度試みていただけますでしょうか。(私自身書き込んでいて途中であきらめたこともあるくらいです。)技術的なことは分かりませんので、ごめんなさい。たぶんこちらのトラブルではないのだと思いますが…。

関東もいよいよ梅雨入りです。田んぼが延々と広がっている風景を目にすると、やっぱり日本のお米には、梅雨はなくてはならない季節なんだなあと思います。この間まで鏡のような水の面が光っていた田んぼも、すっかり稲穂が揃って緑一色のフサフサの田んぼになってきました。でも、あれ以来シラサギにはお目にかかることができないんですよ。残念!

突然話が変わりますが(変わりすぎ!)、北朝鮮の核の脅威とよく言われますが、実は国際社会では日本が脅威と思われてきているのですよね。この間も国連のアナン事務総長がメッセージを発表してそのことに言及したそうです。日本がたくさんのプルトニウムをため込んでいるので、これは核武装のためだと疑念を抱かれ始めたわけです。国内でも今までそのような心配する声はありましたが、それが海外にまで指摘される顕著な状況になってきたということでしょう。

現在日本には、原爆5000発分のプルトニウムがあるそうです。コレみんな原発のゴミから作られるんです。安全性への疑問・技術的に確立していない・膨大なコストなどから、世界中が撤退し始めている技術にもかかわらずです。役に立たない危険物質をなぜため込むのか、誰が考えても「おかし~い。あやし~い。」となりますよね。

一日も早く、危険で無駄な技術はストップしてほしい!!

ariumu7 きょうのアリウム。だいぶまるまると…。

Shall we dance?

Shall we dance?

役所公司主演のオリジナルの日本版は、たまたま観る機会があって、10年くらい前だったかな、出来た当初に観ました。この度アメリカ版を観ました。どっちがどう?と聞かれると、日本版はやはり日本版、アメリカ版はやはりアメリカ版というのが一番当たっていると思います。(当たり前すぎて答えになっていない?)

ではこんな表現ではどうかな。オリジナルの日本版はたとえて言えば、ちょっとうつむき加減にはにかみながら「Shall we dance?」の感じで、アメリカ版は元気な笑顔で真正面から「Sall we dance?」という感じ。わかります?

私の好みから言えば、う~ん、どっちもそれぞれいいけど、アメリカ版かなぁ。全編ダンスのリズム感に満ちているところはやはりボールルームダンス発祥地の血が流れているノリの良さだと思う。家族の交流も日本版より濃密に描かれている。そして温かみがある。それはヒロインのイメージの違いによるところも大きい。アメリカ版は登場人物の人間関係が皆、最後にはダンスの取り持つハッピーエンドになっている。(オリジナルはそこまで描かれていなかったと思う)彼我の違いであると同時に、作られた年代の差もあるかもしれない。日本版が出来た当時からは、たぶん10年くらい開きがあるので、それだけ人間関係の親密さを求める度合いが高まっている(それだけ現実には人間関係が希薄で厳しい?)時代になっているのかもしれない。と考えるのはウガチ過ぎでしょうか。

人の描かれ方は日本版の夫婦の状況よりも、アメリカ版の方が自分に正直で率直で好ましく思えた。それから私なりにちょっと違った角度で観ていて面白いと思ったのは、コミュニケーションの仕方。映画だからということを差し引いても、ちょっと参考になりそうな場面が幾つかある。たとえば、会社で同僚社員が自分の陰口をきいているのを耳にしてしまった社員の一人(リチャード・ギアのダンス仲間)、すごすごと隠れるのでなく、逆にドアをバンと開け放って入ってきて、言い訳する一人の女子社員の手を取って相手を椅子から立ち上がらせ、ダンスのステップで一廻しして、捨てぜりふを残し消える。部下のこの行動に上司(リチャード・ギア)もしてやったりとニンマリ。

これなど実際には出来ないかもしれないが、こんな陰口への対処の方法だってあるんだ、と参考になった。あと、ユーモアのセンス。思ったことをハッキリ語る一方では、それをユーモアで中和する余裕も重要だとわかる。たとえば、駐車場で後ろに車が数珠つなぎになっているにもかかわらず、夫婦げんかを止めない夫婦に管理人が言う「そこのフレッド・アステア、車を出してくれ!」(リチャード・ギアはダンス用のタキシード姿)

シートに座って足がリズムを刻んでいたのはやっぱり映画が楽しかったから。こんなファンタジーもときにはいい。というよりファンタジー大好き!映画館から外に出たら、日が長くなりましたね、まだ明るくて水色の空には、あかね雲の残照と薄紫のすじ雲、さわやか~な夕暮れどきでした。

saradana2 緑のコサージュ!

何でしょう?

saradana3 そう、サラダ菜で~す。

歩いてたら揃っちゃった!

午後、銀行へ行った帰り、ちょっとほのぼのしたできごとがあった。

歩道を歩いていてふと気がつくと隣を歩いていた小学生の男の子と、歩調がいつの間にか合ってしまっていた。たぶん一年生だ。黄色の帽子、ランドセルカバー。一歩ごとに何となく拍子をつけて歩くので、ランドセルが弾んでいる。それと私の歩調が合っている。っと思った途端、男の子が突然走り出した。10メートルくらい先まで走りぬけると、またもとの調子で弾みをつけて歩き出した。

こういう歩き方、小さい子ならではの歩き方だなぁ。っと、子育ての頃を思い出す。もっともあの頃はそんな余裕はなかった。「車に気をつけるのよ」とか目を光らせていたような。今では、気づくとおばあちゃんの目になっている。

小学生はスーパーの入り口に目を奪われたり、すれ違うオジサンを見上げたり、キョロキョロしながら歩いている。ひょっとして、また私と並ぶと走り出すのでは?っと思ってみていると。追いついた私が横に並んだ途端、はじかれたようにダーッと走り出した。また数メートル行って、ゆっくりになる。

どうも横並びになると「ライバル」になるらしい。ちょっとおかしくなって、さて次はどうかな?っと歩いているとまた並んでしまった。今度は並ぶと同時に、ハッキリこちらの顔を見上げて猛ダッシュ!あんまり予想的中で、おかしいやら、可愛いやら…。

走り抜けた背中を笑顔で見ていたら、気になるのか小学生が振り返ってこちらを見た。

何で走ったかって?…そうか、走るしかないか。オバサンも、君のランドセルの揺れと歩くリズムが揃ったときは、なんだか一緒に学校から帰ってきたような気がしたヨ。

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今日はこれくらい。ちょっとふっくら。

ネギ坊主?

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このネギ坊主みたいなのは何でしょう?ユリ科ネギ属の「アリウム ギガンテウム」というそうです。タンチョウアリウムとも(タンチョウズルの頭の羽から)。アリウムとはラテン語でニンニクのことらしいです。緑色の蕾が順番に咲いて、全体が紫色になると花は10センチ以上にもなるといいます。(今は直径3センチくらい)

水彩教室を開いている花屋さんには、ほかではあまり見かけない種類の植物があって興味をひかれます。このアリウム以外にも、面白いのが幾つかあったのですが、迷った末に選んだのがこれ。昨日は、普段はあまり手にしたことのない花を選びました。何となくいつもと違ったアプローチでいってみようかと…。

アリウムには葉っぱはついていないのですが、花の終わった葉物と一緒にすると、これがけっこうな存在感です。これから日一日と、黄緑が赤紫の丸に変化していくというのが面白いですねえ。

ariumu2 ariumu3          ariumu4

白鷺

通勤電車の窓から。

田植えがほとんど終わった、ここ関東の田園地帯。緑の苗がスクスク育っています。あぜ道で話し込む農家の人の影もチラホラ。そんな中、急に目に飛び込んできたのは、白い羽を大きく広げて、田んぼの2~3メートル上空をゆっくりと、ほとんど水平に横切って舞い下りてきた鳥の姿。白鷺です。見ると田んぼの縁にはもう一羽が止まっています。きっとつがいです。

埼玉で白鷺を見たのは今日が初めて。私が子ども時代を過ごした神奈川でも、かつては東海道線の窓からいっぱい白鷺を見ることができました。それが宅地開発でいつの間にかまったく見かけなくなってしまい、それからすでに何十年もたちます。埼玉の白鷺は、今まで私が気づかなかっただけかもしれませんが、いいものですね、鳥の悠然と空を飛ぶ姿は。

スズメだって、ハトだっているじゃないか?そうなんですが、「浅緑の田んぼに白」という、色彩のコントラストがまたいいのですよ。それに白鷺の住めるようなきれいな水と緑の場所が、もっと増えるといいなとも思います。

ピーターラビットの故郷で今

絵本「ピーターラビット」の作者ベアトリクス・ポッターがこよなく愛したイギリスのカンブリア地方。ここは、湖水と緑が美しいイギリス随一の景勝地として有名です。いつか本屋で立ち読みしたとき、ふと開いたら、このカンブリア地方を紹介した写真集だったことがありました。まるでおとぎ話の世界にでも紛れ込んでしまったような、息をのむ美しさでした。たとえばちょっとサイトを検索してみると…写真をクリックして想像してみてくださいこの写真4とか。

そしてポッター女史もこの景勝地を守るために、ナショナルトラスト運動として私財を投じたそうです。

が、ここに核燃料再処理工場があることは、あまり日本では知られていません。日本の原発から出た廃棄物も、ここに送って処理してもらっています。この再処理工場のある土地をセラフィールドといいます。この工場のために付近の海は放射能に汚染され、魚は食べられないそうです。(魚の話は以前、英会話のアイルランド人講師から実際に聞きました。「アイリッシュ海で採れた魚は恐くて食べられない」と。アイリッシュ海はアイルランドとイギリスに挟まれ、セラフィールドはイギリス側の海岸に位置します。)

セラフィールド再処理工場に勤める人を父親に持つ子どもたちに放射能の影響が出たり、廃液の垂れ流される海岸で遊んでいる子ども達には白血病が多いともいいます。(どこの国も同じですが、直接的な因果関係が立証されない限り、国は「シロ」を主張して、被害は続いていきます。)以前読んだ本「ピーター・ラビットの自然はもう戻らない―イギリス国家と再処理工場 私の使う電気は子ども達の犠牲の上に成り立っているわけです。

そのセラフィールドのソープ再処理工場でつい最近漏洩事故があり、重大事故なので工場を閉鎖した方が良いという専門家もいる状況になっています。結構大きな事故なのですが、日本ではほとんど報道されていません。そのため、つい最近、日本の中学生がソープ工場を見学に行く計画が持ち上がっていました。教育委員会の人は何も知らないので計画したのでしょう。(詳報はこちら

関東では考えられませんが、原子力施設のある土地では、広報のために原子力施設の見学を教育活動に組み入れているようです。教育新聞(正式名称は何だったかな?校長先生達がよく読んでいる新聞。)で、原子力施設見学の活動報告などが載っているのを読んだ覚えがあります。ほとんど施設のPRと見まごう内容でした。

でもこんな危険な事故後、閉鎖中の工場へ、中学生達を見学に行かせる計画が進行中だったとは…。事故が大きかっただけに事前に情報が入ってきたけれど、そうでなかったらどうだったのだろう。また海外にまで行って再処理工場を見学する学習効果とは何なのでしょう?子ども自身のためというのではなさそう。

私自身、セラフィールドの漏洩事故の情報が入ってきても、何をどうすることもできないし、実際自分の身近な問題と捉えるには距離があったけれど、日本の中学生の記事を読んだときに、にわかに他人事でないと思いました。思わぬ所で自分たちにつながっているんですよね。

というわけで「カンブリア地方」と聞くと、「ピーターラビットと美しい湖水地方」のイメージ、他方では「核燃料再処理工場」のイメージ、両方がいっぺんに浮かんできて、私はとても複雑な気持ちにならざるをえません。

参考)自民党の河野太郎議員のHPにもこの件に言及したメールマガジン(28日、31日付け)があります。

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