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あおくんときいろちゃん

やっと先週、「セレニティ通信」を出すことができました。
その表紙に、レオ・レオニの絵本「あおくんときいろちゃん」の中のことばを
借りました。

「よかったね あおくんと きいろちゃんは うれしくて 
 もう うれしくて うれしくて
 とうとう みどりになりました」

レオ・レオニ(1910年オランダに生まれ、アートディレクター・画家・彫刻家と
しても活躍)
小学校の教科書に同じ作者の「スイミー」の一部が掲載されています。
小さい魚たちが集まって大きな魚の形を作り、大きな敵を撃退するといった
ような話、として載っています。

ところが本当は、そんな単純なお話の本ではないのです。ということを最近
になって知りました。
ある本に、作者の芸術家としての哲学が込められた高い芸術性を持った絵
本として、丁寧に内容が紹介されていました。
それ以来、レオ・レオニという人に興味を持っています。

もし今これを読まれている中に、小学校の先生がいらっしゃいましたら、ぜひ
「スイミー」は絵本そのものを読んでから授業なさるとよいと思います。きっと
先生ご自身が数倍楽しく授業に臨むことができると思いますよ。
「そんな楽しんでいる余裕はない」ですか?だったらなおのこと、お薦めします。
ぜひ、ご覧になってみてください。教科書とは別の「スイミー」が表れてきます。

「あおくんと…」は作者レオニが孫に迫られて、即興で作ったお話がもとにな
ってできたそうです。
手近な紙に色をつけては手でちぎって形を作り、お話しを続けるうちに、孫も
レオニも夢中になってお話し作りを続けていたというのです。
想像するだけでもワクワクするような絵本の誕生です。

原色の紙を、これ以上ないくらいに単純化して手でちぎって並べただけのよ
うなデザイン。最小限のことば。それでいて子どももおとなも楽しむことがで
きる。
優れた絵本は魔法のようです。

……………………………………………………………
そうそう、昨日の梅の開花のことですが、確認してきましたよ。
やはり白梅が咲き始めていました。
東北は大雪というのに、こちらは寒い中にも春の気配が…。

外から見ると

今日は、本当に寒かったですね。
でも、でもです。見つけたんです!
駅へ行く途中、畑の脇の白梅がチラホラと咲き始めていたようでした。
急いでいたのでよく確かめられなかったのですが、明日もう一回同じ道を
通って見て来るつもりです。
寒くても、もう春が近いんですねえ。

ところで、前回の記事で、ドイツのシュレダー首相の演説を訳してくださった
梶村さん(ドイツ在住)が、メーリングリストにこんなコメントを寄せておられました。
(……から下。ご本人の許可を得て転載。)
あまりに次々にいろいろなことが起こると、周囲の問題にとらわれてしまい、世界
の中で私たちがどのような位置にいるのかを見失ってしまいがちですが、外から
見た日本を知ることは座標軸を正すために大事なことだと思います。

で、梶村さんの感想を読ませていただき、「外から見た日本って、やっぱりそう見
えるのか」と思うと同時に、「後退している」とはっきり認識する必要があるんだと
思いました。立ち止まるとか言うのではなく、「後退」です。

若者の凶悪事件があると、即少年法の改正や厳罰化、また常日頃は無気力と
非難されるなど、何かというと若者に矛先が向けられますが、それはちょっと違
うぞ、とはっきり意識していかねば…。
………………………………………………………………………………

梶村です。
シュレーダー演説を読んだある方の感想に以下の返事を書きました。
>
>  翻訳してくださって、どうもありがとうございました。ドイツと日本の落差
> に、暗澹たる思いです。どうしたら日本を正道に戻せるのか、思い悩んでいます。
>
ほんとうに、愕然とするほどの落差が出来てしまっています。
これはドイツが優れているのではなくて、日本だけが極端に後戻りしているためです。
こちらから見ていると、日本だけが急速に世界の軌道をはずれて孤立して行くのが
よくわかります。悩みは深いです。

この演説にも触れられているように、ドイツであれば、受け継ぐ会の若者たちは、
お手本として首相から演説で賞賛されるでしょうに。

首相にまっとうな歴史認識さえあれば、私の出る幕はないのですが。
そんな、政治家が活躍できる日本を創るしかありません。
このままでは若者の未来は本当に暗いものになってしまいます。
日本の若者は大変です。


注…大本)「受け継ぐ会」…「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/uketugu/sanka.htm

……………………………………………………………………

シュレダー首相の演説

1月25日はドイツで記念式典があったそうです。
「アウシュビッツ解放60周年」の式典です。
日本の新聞にも取り上げられていました。
そこでのシュレダー首相の演説は心に響くものがあります。
重い課題でもしっかり受けとめて前を見ることで、世界の歩みにも希望が見えて
くることを感じました。

同じ地球上に、同じ先進国(?)に、この歴史認識があることは希望です。

ちょっと長いですが全文を掲載します。
(一行当たりの文字数は読みやすいように変えました。)

==============================
梶村です。

以下は、シュレダードイツ首相が、アウシュヴィッツ解放60年周年にあたって
の演説です。
現、ドイツ社会の歴史認識を代表するものとして全文を翻訳しました。ワイツゼ
ッカー演説と比べると、語彙も表現も大変に直裁です。それだけに誤解を許さ
ない厳しさがあると思います。
どなたでも、梶村訳と明記して転載、あるいは引用をしていただいて結構です。
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アウシュヴィッツ強制収収容所解放60周年にあたって
ドイツ連邦共和国ゲアハルト・シュレーダー首相の演説(訳注1)

ゲアハルト・シュレダー連邦首相は1月25日の演説で、60年前のアウシュ
ヴィッツ強制収容所の解放を回顧した。このベルリンの国立劇場で開催され
た国 際アウシュヴィッツ委員会(訳注2)による追悼行事には、多くのヨーロッ
パ諸国からの、元囚人と若者たちが参加した。

演説は以下のとおり:

尊敬するアウシュヴィッツ・ビルケナウの生存者のみなさま、淑女、紳士の
みなさま。

みなさんの前で話すようご招待くださった国際アウシュヴィッツ委員会に感
謝を申し上げます。

私は、このご招待は決して当然のことではないと信じています。現在にお
いてもそうではありません。私たちドイツ人には、人類最大の犯罪を前に
して沈黙するほうがふさわしいのかもしれません。絶対的に反道徳的で無
意味な何百万という殺人を前にしては、政治的言語は役に立たない危険
があるからです。

私たちは、いかなる人間の想像力をも超えてしまった把握できないものを
把握しようと望むのです。私たちは最後の答えを無駄に求め続けているの
です。

残っているのは、少数の生存者と、その子孫のみなさんであります。

残っているのは、殺人施設の残骸と、歴史資料であります。

その他に残っているのは、殲滅収容所において、悪が示した確証であり
ます。

それ以降、悪はもはや政治的、ないしは学問的な範疇ではないのです。
アウシュヴィッツ以後に、いったい誰が、悪が存在し、ナチズムの憎しみ
に駆られた民族虐殺に、それが姿を現したことを疑うことが出来るであり
ましょうか? このように確定することはしかし、古い「悪魔のヒトラー」の
話に逃げ込むことではありません。ナチイデオロギーには前提が無かった
のではありません。人々の思考の粗暴化と道徳的に自制を失ったことが、
その前史であったのです。確実なことは:ナチイデオロギーは人間が望み、
そして人間によってつくられたのです。

淑女、紳士のみなさま、

赤軍によるアウシュヴィッツ解放の60年後の今、私は民主的ドイツの代
表者として、みなさまの前に立っております。私は、虐殺された人々に対
して、また特に強制収容所の地獄を生き延びたみなさまに対して、私の
恥を表明いたします。

ヘウムノ、ベウジェッツ、ソビブール、トレブリンカ、マイダネック、そして
アウシュヴィッツ・ビルケナウ、(訳注3)これらが、犠牲者たちの歴史に、
しかしまた、ヨーロッパとドイツの歴史に、これからも結びついた名前で
あり続けるでしょう。そのことを私たちは知っております。

私たちは哀悼とともに、また深刻な責任とともに、この重荷を背負ってお
ります。

何百万人という子供たち、女性と男性たちが、ドイツの親衛隊隊員と彼ら
の援助者たちによって、ガスで窒息死させられ、餓死させられ、銃殺され
ました。

全ヨーッパのユダヤ人、シンチ・ロマ、ホモセクシャル、政治的敵対者、
戦争捕虜、そして抵抗運動の闘士たちが、冷たい工業的な完璧さによっ
て殲滅され、または死にいたるまで奴隷化されました。

それまでのヨーロッパの数千年の文化と文明には、これより深い亀裂が
起こったことはありませんでした。戦後になってこの歴史的な亀裂の全
体的像が把握されるまでには、かなりの時間がかかりました。私たちは
その亀裂を知っています、しかし私は、私たちがいつかはそれを理解す
ることができるかを疑っています。過去は、よく言われるように「克服」され
ようとはしません。それは過ぎ去ってしまうものです。しかし、その痕跡と
その教訓は現在にまで到達しております。

強制収容所で起こった悲惨と苦悶と悲嘆は、これからも決して埋め合わ
せることはできません。ただ犠牲者の子孫と生存者のみなさまに、一定
の償いを実現することは可能であります。

連邦共和国はこれまでの長いあいだ、男女市民の正義感に依存しなが
らその政治と司法においてこの責任に向かい合って来ました。

淑女、紳士のみなさま、

私たちがここで見ているのは、1945年の夏の解放後の囚人たちの
(会場に掲げられた・訳者)写真ですが、若い男女たちがしっかりと抱き
合っています。
これらのひとたちは、解放後には他の大半の生存者たちと同じく、たい
へん異なった道を踏み出しました:イスラエルへ、南北アメリカへ、ヨー
ロッパの近隣 諸国へ、かれらの故郷へと。

幾人かはしかし、かつていわゆる「最終解決」が決められた国であるドイ
ツに残り、またはふたたび、ここへ帰ってきました。

それは、だれにとっても尋常ではない、難しい決心でしたし、ほとんどの
人々にとっては、それは自由裁量ではなくて、完全な希望の欠落の結
果だったのです。しかしながら、彼らの傷ついた人生にも希望が帰って
来ました。そして多く人々がドイツに残ったのです。私たちはそのことに
感謝しております。

今日では、ドイツのユダヤ人共同体はヨーロッパで三番目に大きなもの
です。そして活気があり、成長しています。新しいシナゴークが建設され
ています。いまやユダヤ人共同体は、私たちの社会と文化のかけがえ
のない一部になっており、そうであり続けています。その栄光にあふれ、
同時に痛みの多い歴史は、責務であると同時に約束であり続けていま
す。

学ぶ能力のない反ユダヤ主義者からは、私たちは彼らを国家権力を
もって守ります。反ユダヤ主義がいまだに存在することを否定してはな
りません。それと闘うことは全社会の課題です。反ユダヤ主義者たちが、
私たちの国だけではなくどこでも、ユダヤ人市民を、圧迫したり、傷つけ
たりすることに成功して、私たちの国に恥をもたらすようなことは、二度
と許されないのです。

極右勢力と、かれらのうっとうしい標語や落書きに対しては、警察、憲
法擁護局、そして司法が特別な注意を払うに価するものです。しかし、
ネオナチスと古いナチスとの闘いを、私たちすべてが共に政治的に実
行しなければなりません。

ネオナチスの不快な挑発と、常に繰り返されるナチスの犯罪を瑣末な
ものにしようとする、新たな試みに向かって断固として対抗することは、
すべての民主主義者の共通の義務であります。民主主義と寛容の敵
に向かっては一切の寛容があってはならないのです。

淑女、紳士のみなさま、

アウシュヴィッツの生存者のみなさまは、私たちに、眼をそらすな、
耳をこらせ、注意深くあれと要求しています。彼らは私たちに、人権
犯罪をずばりと指摘 して闘うよう要求しています。これらは、例えば
今日、アウシュヴィッツの追悼施設を自分の眼で確かめている若者た
ちによって聞き届けられるでありましょう。彼らはかつての囚人たちと
話し合っています。彼らは追悼施設の手入れをしたり、その保存の手
伝いをしています。彼らは、彼らに続く世代に対し、国家社会主義の
犯罪について啓蒙することに力を貸すでありましょう。

淑女、紳士のみなさま、

現在生存しているドイツ人の、圧倒的多数は、ホロコーストに対する
罪を負ってはいません。しかしながら、彼らは特別な責任を負ってい
ます。国家社会主義の戦争と民族虐殺を心に刻むことは、私たちの
生きた状態の一部(訳注4)となっております。かなりの人々にはこの
一部が堪え難いのであります。

しかしながら、この心に刻むことが私たちの国民的アイデンティティー
に属していることが変わるものでは全くありません。国家社会主義の
時代とその犯罪を心に刻むことは、ひとつの道徳的義務であります。
私たちはこれによって、犠牲者、生存者、また彼らの係累に対しての
み責任があるのではなく、否、私たち自身にとっても責任があるので
す。

淑女、紳士のみなさま、

忘れてしまおうとすること、記憶を抑圧してしまおうとすることの誘惑が、
大変に大きなものであることは確かです。しかし私たちはそれに負け
てしまうことはないでしょう。

ベルリンの中心部のホロコースト警告碑の石柱の広場(訳注5)は
犠牲者たちに生命も尊厳も返すことはできません。生存者と彼らの
子孫たちには、たぶん彼らの苦悩の象徴となりうるでしょう。私たちす
べてにとっては、忘却への警笛として役に立つでしょう。

ここで、私たちに確かなことは:私たちが、かつて国家権力によって、
自由と正義と人間の尊厳が踏みにじられことを忘れるならば、自由も
正義も人間の尊厳もあり得ないということです。ドイツの多くの学校で、
企業で、労働組合で、また教会で私たちの手本になることが行われ
ています。ドイツは自らの過去に立ち向かっているのです。

ショアー(訳注6)から、ナチスのテロから、私たちすべてにある確信
が生まれてきました。それは「二度と許さない」という言葉で最も良く
表現されています。この確信を私たちは守ろうと望みます。すべての
ドイツ人も、またすべてのヨーロッパ人も、国家共同体全体が、敬意
を持って人間的に平和のうちに共生することを、いつも新たに学ばね
ばなりません。

ジェノサイド禁止条約は、ホロコーストの直接の国際法規の教訓で
あります。それは、異なる門戸、文化的特徴、宗教、および皮膚の
色のすべての人間に、生命と人間の尊厳を世界中で尊重し、擁護
することを義務づけています。ここにおいても、あなたがた国際アウ
シュヴィッツ委員会は、すべての人間の利益のために、みなさまの
特徴ある働きをもって闘っておられます。

みなさまとともに、私は殲滅収容所の犠牲者の前に頭を垂れます。
もしいつの日か犠牲者の氏名が人類の記憶から消えしまわねば
ならないとしても、彼らの運命は忘れ去られることはありません。
なぜなら、それは歴史の中心に安置されているからです。

(演説おわり)
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
(訳注1)原文は首相府のホームページにあります:
http://www.bundeskanzler.de/Neues-vom-Kanzler-.7698.778869/Die-Nazi-
Ideologie-war-menschengewollt-und-mensc...htm

(訳注2)ナチドイツの強制収容所の生存者によって、戦後すぐに
     設立された全ヨーロッパの組織。

(訳注3)二酸化炭素や青酸ガスで工業的に大量殺人を行なった
     殺人工場施設があった地名

(訳注4)Teil unserer gelebten Verfassung が原文。大変に翻
     訳が難しいのであります。

(訳注5)今年のドイツの敗戦60周年記念日に向けて建設中の
     「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人追悼記念碑」。
     ブランデンブルク門の南の広場に多くの石柱が立てられる。
     5月10日に除幕されるが、すでにほぼ完成している。
     現状の写真は以下で見れます:
     http://www.holocaust-denkmal-berlin.de/index.php

(訳注6)Shoah 「絶滅、破滅」をあらわすヘブライ語。

(訳責は梶村太一郎、Berlinにあります。アウシュヴィッツ解放60周
年記念日に翻訳)

「なんでやねん?」その後

今日は、やっと「セレニティ通信」の発送をしました。なので、今週末あたりお手
元に届く方もあると思います。後日、セレニティのサイトにも載せますね。

サイトと両方に載せるのは、ネット環境にない人のためというだけではありませ
ん。やっぱり手にとって読むのと、画面上で読むのとでは、表されるものが違う
気がして、紙の媒体はそれはそれで良さがあると思うからなんですけど、どうで
しょうか?

もし読まれての感想などありましたら、内容に関してだけでなく、体裁など何に
ついてでもよいので、気づいたこと、聞かせくださいね。

さて、昨日の二つの記事の最初の方の記事に、若干補足(訂正)があります。

①新聞はなぜ書かないのかと書きましたが、よく見たら昨日25日の朝刊の
社会面の下の方に、2段に渡り続報のような書き方で載っていました。
「“告発”の警官を異動 愛媛県警内示 捜査疑惑で報復?」
が見出しです。
続いて「愛媛県警は24日、捜査費不正疑惑と20日に記者会見して“内部告発”
した生活安全部地域課鉄道警察隊の仙波敏郎巡査部長・・・」となっています。
見出しの告発はともかく、内部告発に“ ”がついているのはどうしてかな?
記者の何らかの意思表示なのかと思ったりしてしまいます。(疑い深くなっている
かも?性格も悪くなっちゃうかも?困った!)

この書き方だと、どこかに既報があるはずで、それを確認したいと思うのですが、
忙しかったこともあって、まだ新聞社に電話していないんです。結構そういうのっ
て気が重いですよね、電話一本だけど。サッと掛けられる人はすごいと思う。

この記事については、もちろん書かないよりはいいけれど、問題は報復人事かど
うかではなく、そういう懸念を持たれる背景に何があったのかを明らかにすること
だと思うのですけれどねえ。

②もう一つ、
「出版社組合が報道(表現)の自由に関して声明を出している」と書きましたが、
これは組合ではなく正確には、
「出版流通対策協議会(89社の出版社が加盟する団体、
http://www.netlaputa.ne.jp/~ryuutai/)」から出た声明でした。

大手の出版社ではなく、中小の「がんばっている」出版社の集まりです。
私の知り合いもこの中で頑張っている一人です。

本当に良心的な会社で、そういう出版社はホントに苦しい経営をやりくりして
「報道」や「表現」の自由を守り、知る権利のために努力している気骨ある人た
ちが大勢います。どこの世界にもそう言う人たちはいるのだから、悲観すること
はないけれど、たいがいそう言う人たちに陽が当たらないのが何と言っても残
念な気がします。

名前に踊らされず自分の目で見て良いと思うモノを見つけ、活用していくことが、
出版分野に限らず、良い「商品」を育てていくことになるのでしょうね、きっと。

あれ?話が横道にそれた。失礼!

♪雨に歌えば♪♪

ジーン・ケリーのあの雨の中のダンスシーン、何度見ても圧倒されますねえ!
楽しいし、ウキウキして見ちゃうんだけど、よ~く見れば見るほど、すごい!!

あんなドシャブリの雨の中で、恋に浮かれているとはいえあの笑顔を保ち、
難なくこなすダンス。しかも楽しそうに踊るのが素晴らしいと思う。

ハリウッド全盛期のアメリカの屈託のなさ。これはこれでステキだ。
あれは子どもの水たまり遊びの感覚だ。雨の日に水たまりをバシャンバシャンと
蹴散らしてひんしゅくをかっていた悪ガキどものあの遊び感覚。
(あんなに派手にやった記憶はないので、一度はやってみなくちゃとこの映画を
見て思ったのだ。)

それにこの映画は喜劇仕立てなのもあるけど、笑顔が多い。笑顔って大事だな
って改めて思う。良い笑顔は見ているこっちも嬉しくなるから。

デビー・レイノルズもすっごく可憐で、初々しい。当時19歳だとか。若さの持つ
キラキラしたまぶしさが健康的で気持ちいい。

D・オコナーの笑いをいっぱい振りまくダンスも超難度のダンスなのに、ヘッチャ
ラって感じでこなしているから恐れ入る。

タップダンスやモダンバレエ風なのとか、ダンスも楽しめるし、歌も楽しいし、
脚本もミュージカルとして無理のない筋立てで、何度見ても発見があるんですねえ。
普通何度も見ると、アラが見えてきたりすると思うのだけど、この映画は何度見ても
どの場面もそつがないというか、すっかり計算されていて、カメラの中心じゃないとこ
ろを見ていても面白い。

50周年特別記念版ビデオやDVDも出ているとか。私のは40周年記念のビデオ
ですけど。(数年前にたまたま980円だったから買ったという・・お粗末な動機で)
でもキッカケは何であれ、いいものはいい!楽しいし元気になりまっせ~!
たまには別世界もいいもんです。

なんでやねん?

突然関西弁で失礼をば・・・。

何を言いたいかというと、「どうして書かないの?」と言いたいのだ。

NHKの番組が直前に4分も短くなったのは、なぜなのか、
NHKと朝日新聞の争いじゃなくて、報道や表現の自由が守れるか
どうかという、と~っても重要なことじゃないの?

なのにどうして新聞はこんなに何も書かないの?

だけじゃない。
21日愛媛県警の現職警察官が、長年の不正支出を実名で告発したことも
書かない。この巡査部長は24日に異動の内示を受けたそうで、もう制裁と
いうか報復が始まっている。

このところの立て続けの告発を、組織のウミを出す追い風にしようと思えば
できるのに、なんで新聞は書かないの?

そんなに新聞までも書けなくなっているのだろうか。あるいは、書いても載
せてもらえないのかな。当の朝日新聞にしても、こんな大変なことなのに
サイト内検索しないと記事が見つからないような小さな扱いになっているし・
・・。

変だなあ~。

だから、「なんでやねん?」

良心と正義感に基づいて必死の思いで世論に訴えた人がいるのに、新聞
もテレビも知らんぷり。(NHKは一生懸命ニュースで自己弁護してるけど、
これってずるくない?)
じゃあ何も動きがないから書かないのかというとそうじゃなくて、ちゃんと記
事にする内容はあるのだ。

探してみると、出版社組合が報道(表現)の自由に関して声明を出している
し、また、次の報もある。

「NHK番組改変問題、東大教授ら14人が究明求める声明
NHKの番組改変問題で東京大の教授・助教授14人が24日、国会
に事実関係の究明を求める声明を発表した。「放送への政治権力の
介入が、言論・報道の自由、表現の自由を侵害し、この国の民主主
義を危機に陥れるものであることを憂慮する」と指摘。呼びかけ人の
醍醐聰(さとし)経済学研究科教授は「学内の教員の賛同を求めてい
く」と話している。」(「asahi.com」より。)

朝日新聞にはNHKの改変問題で、問い合わせが1000件くらいあり、賛否
6対4か、5,5対4,5くらいでしっかり追求してほしいという意見があるとも。

それなのにこの静けさはなんなのだ?!
なんか、変だ。なんか変だって、ここ数日思ってる。
他人事じゃないって感じで・・・。
組織の中にいて、間違ったことを仲間がやっていたり自分も誘われた
り圧力を掛けられたりしたときに、それをはねのけることがどんなに大
変なことか、ましてや告発するとなると・・・。自分だったらどうしてるだ
ろう。

もっと早くにそういう職場は去っているか、それとも食べていくためには
じっと我慢でいなくちゃならないかもしれないしなあ・・・。
いずれにしても、そんな大変な思いをして訴えた内容について、せめて
報道の姿勢として真正面からとりあげるべきじゃないかなあ?

ダメだ、疑問ばかり湧いてくる・・・。

これはこれでひとまずおしまい。
お口直しに、ちょっと楽しい話題を次の記事で。

一人芝居、観てきました。

一人芝居、観てきました。
これは「一人芝居」を観てきました。が正解です。

一人で芝居に行ったのとは違います。

何を観たかというと、「釈迦内棺唄」(水上勉原作)です。
話の筋はここの前の方に一度書きましたので、今日は省略します。
で、それ以外の感じたことを。

お寺での公演だし、失礼ながらそんなに入らないのでは、などと予想して
出かけていったら、立ち見も出る大入り満員でした。
200人?いやもっとだったかも。座布団に座る人イスの人立って見る人と
さまざま。

テーマは重いけれどとても大事なことで、言葉で多くを説明するよりも、
もし学校などだったらこのお芝居を観てから、歴史や文化について学ぶと
とても深く学ぶことができると思った。

何といっても主演の有馬理恵さんの目の輝きが素晴らしい!あんなに目の
キラキラした女優さんは珍しいのではないかと思うくらい、目に光と力がある。
ライフワークの意気込み、熱意、日頃の生き方、み~んな舞台に出てしまう
ものなんだろうなあ。

重いけれど暗くはない。重さの底に一筋しっかりした光が見え、それがときに
ユーモアとなって芝居を温めている。人間の生命や生への慈しみと尊厳が、
過酷な日常の中で自然に語られている。

父とともに二人暮らしで、差別の歴史を生きてきたふじ子、その日の朝に父を
亡くしたふじ子を演じる女優は強い人でなければ演じられない役のように思っ
た。ふじ子と一体化しなければ演じることはできないから。

今日は泣かないぞと思っていたのに、ついに終盤なぜここでと思うようなところで、
なぜか誰も泣いていなかったところで、泣いてしまった。
不思議なことにふじ子が背中を見せたとき、その背中を観ていると涙がこぼれて
しまったのだ。

終盤、コスモス畑が目に浮かぶようだと水上勉が賛辞を寄せたそうだが、
私も確かに紅や白のコスモスを見た気がする。
これからコスモスを観るたびに、もしかしたらふじ子を思い出すのかもしれない。

有馬さんのふじ子が日本のあちこちにコスモスの花を咲かせますようにと願って
いる。


「楽しい」の理由

ここ数日、「セレニティ通信」の編集に追われています。
皆さんに書いてもらった原稿をレイアウトして、自分の原稿を入れるだけなのに、
言葉って気になり出すと、何度でも直したくなって結局元の方が良かったり、
時間ばかりかかってしまうときがあります。

そんなで時間取られてました。
印刷に行って、来週くらいにはできるかな?

さて、送ってくれた原稿の中に、Eくん(学生)がこんなコトを書いてくれた。

……………………………
「あの日、私がステージで見たものはお客さんと溶け合い楽しそうに、演奏し、
歌い、踊る出演者のひとたちだった。そこには飾られた言葉はなくただ心に直
接響いてくる力があった。

『楽しい』というものは何だろう?
バカなことを聞くとあなたは思うかもしれない。しかし、それがどんなものかわ
かっているにもかかわらず感じられない人がたくさんいる。
楽しいということ、それには理由なんてなくただそこにあるだけだ。」

……………………………

そんなの当たり前と思いがちだけど、よく考えてみると、私たち(いえ私の場合)、
けっこう楽しむときに理由をつけているときもあるような気がする。

「~だから」楽しい、とかって。
楽しいに、意味を求めているようなところ、そうすることでどこか言い訳しているよ
うなところもありそうな…。

「~だから」なんていう理由はいらなくて、ただ「楽しいから楽しい」でいいんだよね。

何だか分からないけど、楽しい!って、
こういう楽しみ方ができるのが、一番自然で無理がないことなんだろうな。

「楽しいから、楽しい」は、今ある自分を100%生きることでもある。
そういうこと、だね?……Eくん、君はエライ!

「花を楽しむ」

今日の新聞から二題。

①「花を楽しむ」の題につられて梅原猛さんの文章を読む。
 ちょっと長めのコラム(随筆?)。 もう十年続いているらしい。
冒頭を引用すると、

「私は十年以上の間この欄で連載を続けているが、一度も花について
語ったことはない。それは、私は自己の仕事に追われていつも未来を
向いて生きていたからである。過去を振り向く暇も、自然を楽しむ心も
あまりなかったといわれても仕方があるまい。
 それに対して妻は深く自然を楽しむ心をもっていて、『自然との共生』
と私が常々いっているのは実は観念のみの主張で、真に自然を愛する
心をもっていないと批判する。妻の批判はまことにもっともであるが、こ
の頃やっと私にも自然を楽しむ心が芽生えてきたといいたい。」

奥さんの一言、ききますねえ!

<観念のみの主張>にならぬよう自戒を込めて…。


②作家の高村薫さんが
「6400人の死者に報いる道-阪神・淡路大震災10年に寄せて-」
(17日付東京新聞文化欄)
で、思わず膝を打ちたくなるような良いことを書かれている。

非常に乱暴におおざっぱに要約すると、
「大災害が立て続けに起こるなか、国はある程度の被害は仕方がないこととして、
被害を防ぐこと(防災)よりも被害を減らすこと(減災)を現実的な目標に方向変換
してきている。人の命を優先する防災を考えた街作りにカネを使わず、従来通りの
経済成長路線を続けていこうとしている。

その気になればできる技術とカネを持ちながら、<仕方ない>として片づけている。
しかし、これは本当に<仕方ない>ことなのか?」と問いかけ、

そして、
「できれば安全な街で働き、安全な乗り物に乗り、地震や津波に怯えずに暮らし
たいというのがわたしたちの本心ではないのか」
………
これ以上の高層ビルは必要か、新幹線は10分ごとに発着する必要があるか、迷
子になるほどの巨大地下は本当に必要か。」と続けて、
国のあり方や従来の価値観の再考を迫っている。

また、夜の震災特集番組では、(やはり高村さんが)
「人の生命は国の財産だと思う。」と発言していた。

それを聞いて思った。
少子化対策で、子を生むことを奨励しながら、一方では<仕方がない>と切り捨
てられるなら、人の命は消耗品と変わらないことになってしまう。

最近、大災害の被害状況が死者何名と数に置き換えられて伝えられるが、私に
は万、十万という死者の数は、人の生死を感覚的に捉えられる範疇にない。
報道上、仕方ないのかもしれないが、非常に違和感を覚える。

むしろ一人の個人に意識が向けられたとき、想像力が働いて、生も死も自分につ
ながる感覚になる。そして万も、十万も個人の延長として捉えることができる。

国が「防災」から「減災」(防災の専門家の新語らしい)に切り替えたのは、こうし
て考えてみると、個人の生命に無頓着なればこそ出てくる発想だとも言える。

どんなことがあっても、人として生まれた以上、まず与えられた生命を精一杯生き
抜くための努力をしようとするのが生き物の一番自然な道だと思う。
そこからいくと「減災」なんていう言葉は出てこようはずがない。
生きるために知恵と力を出し合って行くのが、私たち市民、一般ピープルのやりか
ただ。

スマトラ沖地震のあの大災害の中でも、苦しい中で人々がお互い助け合った話を
聞くことが、私たちに生きる勇気をくれる。親切だった人たちのことが、人への信頼
を生み、そのような人々のいるところだからこそ、お互い力を出し合う意欲が持てる
のだと思う。

再び高村さんの記事から、
「地震で人が死なない国土づくりを目指すことが、6400人の使者に報いる道だった
はずである。」

そう、「減災」NOよ!

私のチラシ作り・政治家の国造り

ちょっとタイトルで遊んじゃいましたが。
(昨日今日と話題が重いからちょっと生き抜き、ね)

今日は次回の瞑想会のチラシづくりにとりかかっていました。
案内文やレイアウトをあれやこれやと検討し、最終的に一枚の紙に盛り込んでいく
作業は、けっこう集中力がいるものですね。パソコンで絵を描くのは楽しいけれど、
それに夢中になると、趣旨からずれて行ってたりして、あ~いけない、いけないと
もどってきたり。

瞑想会だから、頭の中だけで作るのでなく、できるだけ自分の全体のエネルギー
で感じるものをチラシに盛り込むように、気持ちを集中していったつもりですが…。
メールは便利だけれど紙資料にはそれなりの良さがあると思うので、丁寧に作り
たいと思っています。仕上がり具合?できてのお楽しみ!

なんちゃって、別にたいしたことではないのであんまり期待しないでね!


さて、ここからは昨日書いた、NHKの番組改ざんに関してです。
政治的な圧力により何が番組から隠されたのかを知ることは、二度と同じ過ちを繰り
返さないために必要なことだと思うのです。
なので、友人から送られてきたメールの一部を転載します。
ぜひサイトも読んでみてください。

…………………………………………………………………………
(転載ここから)

当日、番組から削除された中には、元兵士による加害の証言もありました。政治的圧
力によって隠されたこの証言を、季刊『中帰連』サイトにアップいたしました。
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/syougen/nhk_special.htm

元兵士の証言を聞いた、ある元「慰安婦」とされた女性は、次のように言いました。
「これで私は日本兵を許すことができる。やっと自分の人生を生きられる」

(転載終わり)
…………………………………………………………………………

事実をなかったことにして闇に葬ることは、被害者ばかりでなく加害者も、
辛い過去から救われないということですよね。
初めて<撫順の奇蹟>の事実を知ったとき、私は暗い歴史の中に人間の良心を見た
気がしました。過去の事実も過ちも消すことはできないけれど、人間の心を取り戻すこ
とはいつでもその決意を持てばできるし、それが唯一加害・被害双方を癒す方法だと
思うのです。

その意味で、政治家が圧力をかけて事実を隠すとしたら、それは誰のための行為なの
か、見えてくる気がしますよね。決して個人のため、個人が癒されるためではないみた
いです。
でも、個人を大事にしない国って、誰にとっても生きにくい、誇りを持てない国だと思い
ませんか?だから、愛国心を叫ぶ政治家は、むしろ個人を大事にする国、住んで良かっ
たと思う国造りをすれば、自然に誰でも愛国心は持つと思うのにねえ。なんとも…。
(<撫順の奇蹟>については、上記サイトをごらんください。)

表現(報道)の自由

NHKの報道番組について、内部告発した長井さんの記者会見が、今日の朝刊一面
に載っていた。載っていたけれども、トップ記事ではなかった。
なぜ?
だってこれって、新聞にとってほとんど自分の身に起きるのと同じくらい大変なことで
すよね。メディアがこぞって大々的に取り上げてもいいくらいの出来事なんじゃないか
なあ?

いまさらメディアに期待しない方がいいのかもしれないなあと思いながらも、本当に一
生懸命頑張っている報道に携わる人たちもいるのだから、その人達は精一杯応援し
たいと思う。

今回問題になったNHKの番組「女性国際戦犯法廷」は、当時も改変されたと言うこと
で問題になったし、私も実際番組を見て腑に落ちないまとめかたの番組だと思った記
憶がある。番組制作者も悔しい思いをしたことだろう。告発した長井さんの重圧はさ
ぞやと思う。絶対に彼を孤立させてはいけない。
私もちょこっとだけど応援の幾つかを試みた。

また、今日の7時のニュースでNHKは、今回のことで朝日新聞を提訴したと告げてい
たが、公共の電波を自分の弁明みたいなことに使わないでほしいと思った。
本来なら自浄作用で自らのウミを出して、真実を「こうでした」と報道すべきですよね。
現場の制作者が告発したにもかかわらず、この期に及んでも弁明に終始する姿勢は、
もう救いようがないのかなあ。

いつも見るアナウンサーの、実直で人の良さそうな表情を今日はまじまじ見てしまっ
た。仕事とはいえ、彼はどんな気持ちであの原稿を読んでいたのだろう。

女性の立場からしても、ここは真実を知りたいところだ。「女性国際戦犯法廷」は国
が手をつけない戦争による女性の性暴力被害に対して、せめて市民の手で真実を
明らかにして、同じ過ちを起こさないようにとの意義ある裁判だったと思う。それを、
さらに政治の圧力で封じようと言うのだから、これではどこまでも女性、とりわけ被
害女性達は踏みつけにされたままだ。

高齢女性達がいなくなるのを待っているのだと思うと、他人事ではない。これは明
日は我が身だ。いつも女性や子どもが犠牲者になるのだから。(津波の被害も半数
が子どもだったとか)

黒も白と言い続ければ白になると言うが、たとえそれで真実を封じ込めたとしても、
そのような社会は、決して平和にも幸せにもなれないだろう。
政治家が「ない」と言うから「ないのだろう」、マスコミが「報道しない」から「ないの
だろう」、ではなく、政治家が何と言おうが、マスコミがどのように報道しようが、事
実は消えないし、そこで味わった思いも消えていないことは確か。
それが次の世代に、何らかの形で伝えられていくことも。
戦争の怖さはむしろそのことではないだろうか。
人々の戦時の体験は、癒されないまま次の世代に送られていく。暴力の連鎖だ。

見えないものを見る目、聞こえないことを聞く耳、どちらもちゃんと働かせねばと思う。
日常に紛れてしまいがちだけれど…。
今日は思わず突っ走ってしまいましたが、何だか書かずにおれなかった。
表現の自由はこうして書いている私の自由でもあるのですものねえ。

(下のURLは参考になります。)
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/tv/nhk2.html#idou

ふっじさ~ん!

今日の富士山、見ましたか?
もう、今日みたいにスッキリ美しい富士山はここ何年も見たことない、というくらい
見事でしたね。

おまけに私が見た場所が、いかにも関東平野といった見渡す限りの田園風景。
え、そんなところがあるの?ええ、あるんです。
さいたま市からちょっと電車に乗っただけでですよ。(もしかしたら、さいたま市内
かも。今日のような日に、川越線にお乗り遊ばせ!)

高い建物がほとんどなく、蜘蛛の巣のような電線がちょっと邪魔だけど、民家と田
畑の広がる風景の向こうに、秩父の山々が青く連なり、そのど真ん中に白く雪化
粧をした富士山が裾野までクッキリと浮かび上がる。
思わず、「みんな見て見て!」って、電車の乗客に声を掛けたくなる衝動をかろう
じて抑えた。

(やっぱあそこで「富士山きれいですよ」なんて車内に声を掛けまくったら、おかし
いと思われるよなあ。でもあそこで言えたら自分の世界観変わるだろうなあ…)

富士山てやっぱり、「立派だなあ」と思わず気持ちが引き締まるような不思議な
山だ。

帰りの夕日の田園風景もまた素晴らしかった。
「おっぺがわ」という川があるのですが、小さいけれどその川の両岸は、秋はス
スキが美しいし、今日のように暮れなずむピンクや紫の空、夕日に浮かぶ遠い山
並みのシルエット、絵のような田園風景で郷愁をかきたてられる。バスの前の座
席の人も、ジッと視線で追っていたから、きっと同じ思いだったのかも。

行きの富士山と言い、帰りの夕日と言い、田園風景をバスや電車で突っ切るのは
自然を味わえるちょっとした幸せ。週二日の通勤の楽しみの一つだ。

   …………………………………

雨にも負けて、風にも負けて、雪にも、夏の暑さにも負ける、
おばあちゃんに向かってこれまた一直線のさくら子、でした。
(昨日のあざみ子さんのコメントに)

おばあさんの味わい

今日は埼玉も、風が身を切るように冷たかった。東北は大雪だそうだ。
ニュースでは、地震の被災地の仮設住宅の雪下ろしがたいへんそうだった。
一面真っ白な中で、腰の曲がったおばあさんも大きな雪の固まりをソリ(?名前が
分からない)にのせて運んでいた。

ヨッコラショと大雪をソリから降ろして、インタビューに答えていた。
「こんな大雪は初めて。もう死ぬかと思ったあ。」と方言で語るおばあさんは、
どことなく「たいへんだけど元気」と全身が語っている感じだ。
その様子がまるで、近所の人に話しかけるような口調でインタビューに答えてい
るものだから、後ろで近所の主婦が声を殺して大笑いしている。

「わしゃあ、もう84歳。こんな大雪見たことない。」「今までで一度もない。」
別にどうということないのに、なんかおかしい、ユーモラス。
後ろの主婦だけじゃなく、きっと周りの人も、たぶんインタビューしている記者も、
きっと笑っていただろうと思う。その場の和んだ雰囲気がテレビのこちらにも伝わっ
てきた。

このおばあさんのことで、以前見たテレビのある場面を思い出した。
宇野千代さんがテレビの取材を受けて、自宅で天ぷらを揚げているところだった。
宇野さんは快活におしゃべりしながら、トウモロコシの天ぷらを揚げていた。

ゆでたトウモロコシの実を包丁でこそげ、それを衣に混ぜてスプーンで油に落とす。
ちょっとぎこちない手つきで(もう、その時かなりお年でした)、揚がった一つを油か
ら取り出すと、その箸を、なんと「これおいしいのよ」と言いながら、カメラに向かって
ニューッと差し出した。

不意をつかれてよけるカメラに向かって、さらに天ぷらをつまんだ箸をかかげて追い
かけようとしていた。あわてたお手伝いさんに止められていたのが、ほんとにおかし
かった。ご当人は「おいしいのに…」と涼しい顔をしていた。

宇野さんといい、雪かきのおばあさんといい、おばあさんならではの味わいだ。

    ……………………………………………………………

宇野さんのテレビの数日後、私はトウモロコシの天ぷらを作りました。これ、ほんと!

イベントのご案内・二つ

私の友人・知人のイベントをご案内します。

一人芝居の有馬さんとはまだ直接お会いしたことはありませんが、
送られてきたメッセージを読んで、より多くの人にご紹介したいと
思いました。(後半に有馬さんのメッセージを掲載)

①一人芝居へのお誘いです。

一人芝居「釈迦内柩唄」東京公演
原作¦水上勉 
主演¦有馬理恵(俳優座)

日時¦2005年1月21日(金)
   開場 18時30分  開演 19時
場所¦光明寺(日比谷線神谷町駅3番出口徒歩1分 
       神谷町交差点りそな銀行隣)
料金¦一般 3000円 学生 2500円 当日券 3500円
主催¦「釈迦内柩唄」実行委員会
実行委員長¦佐藤光雄(日本平和委員会代表理事)
賛同人¦畑田重夫(日本平和委員会代表理事)
    内藤功(弁護士)
    木村康子(日本母親大会実行委員長)
    小森陽一(東京大学教授、9条の会事務局長)
お申し込み、お問い合わせ
    東京平和委員会 tel 03-5940-6088     


<主演・有馬理恵さんのメッセージ>
(私の判断で読みやすいように改行させて頂きました)

一人芝居「釈迦内柩唄」東京公演に掛ける想いです。
     
若いお坊さんに「お坊さんは職業じゃねえ。生き様だ。」と書いた名刺を頂いた。
この事は私の「生命」ともいえる「釈迦内柩唄」を演じ続けていく事とシンクロした。

「釈迦内柩唄」は昭和40年代の日本が舞台の芝居である。主人公「ふじ子」が仕事
そのものが差別されている死体を焼く家業を継ぐ物語で、強制連行されてきた中国人
や朝鮮人への差別も描かれている。

戦争は今も世界で起こっている。そして戦争に常につきまとう「差別」と「人権侵害」。
将来、悲しい事だが戦争が無くなるとは考えにくい。人類の文明は日々進歩している。
しかしその進歩は思わぬ方向へ向かっているように強く感じてしまう。

芝居は観た者を変える力を持っている。事実、私は高校生の時に「釈迦内柩唄」を観
て終演後も立てないほどの衝撃を受けてしまい、結果芝居を観たことがきっかけで舞
台女優となった。
芝居をする事で今の方向を、流れを変えたい。これは無理な考え方かもしれない。
だが、その事だけが、これまでの私を突き動かしてきた。

私にとって、芝居の力は、人間的な感覚を呼び覚ますことにあると思う。
もし、戦争が人間性を否定する行為ならば、芝居は戦争とは反対のものとして捉える
事が出来るのではないか。
ある者は身体を使い、またある者は絵を描き、写真等を使って訴える。
そうするとその人は平和を求めて交渉を図ろうとしている事になるのではないか。
もしかしたら、戦争を存続させる権限を持っている者達が周りにアーティストを置きたが
らない理由もそういう事なのかもしれない。

いつの世も、アーティスト達は「芸術」「表現」を使って起きている事を人々に見せ、手を
伸ばして気づかせ、止めさせ、注意を向けさせようとしてきた。
無力なマスコミの壁を超え、無関心から人々の心を揺り覚ますために、アーティストは
表現し続けるのではないか。

今も昔も「金」が力になり、それがやがて「権力」となる。アーティストはその「権力」を持
つ者達と戦い続けている。
しかし、現在はその戦う力さえ押え込まれてしまう時代になっているような気がしてなら
ない。

「自由」と「民主主義」。日本はいや、日本国民はこの2つを履き違えたまま今日に至っ
てしまったのではないか。その事が今、まさに問われているといっても過言ではない。
今こそ、その事に気づき、これからの日本を、世界の方向を「平和」へと人々の力で向
けていかなければならないのだ。

私は、芝居の力を信じている。
「一本の芝居が、人間を動かす力になる。」
私にとってのその動かす力こそが芝居「釈迦内柩唄」なのだ。
  舞台女優(俳優座) 有馬理恵

……………………………………………………………………………………………

②ベリーダンスへのお誘いです。(演じるのでなく、観るほうです。)
  ~オリエンタル・フラワー~

上田葉子さんのべりーダンスを見せていただいて思うことは、日本人の身体と感性を
通したベリーダンスといった面です。なので、エキゾチックな表現に魅了されながらも親
しみやすさも覚えます。妖艶なイメージのベリーダンスですが、もともとは女性の身体を
慈しみ、月に祈る意味あいがこめられていたそうで、そんな源流を思い起こさせてくれる
「舞」、そんな気がします。

場所 ナタラジ銀座店 9Fフロア
日時 2005年2月2日(水)
   開場18:30 開演19:30
Part1 19:30~20:10
Part2 20:30~21:10
[全ステージ ライブ演奏 入れ替えなし]
出演 上田葉子 大谷安子
演奏 常味裕司 ウード
   立岩潤三 パーカッション
チャージ 2500円(ディナー料金別途)
ご予約(インド料理)ナタラジ銀座店
         ℡03-5537-1515
        中央区銀座6-9-4銀座小坂ビル   
地下鉄銀座駅A2出口徒歩1分
  

Happy Chain のお正月コンサート

今日は午後から、親子のお正月ミニコンサート(歌とパフォーマンス)に出かけた。
主催のHappy Chain友人の「エンジェルくみちゃん」からのお誘いだ。
ギタリストの下館さんも出演。
終了後、スタッフと残っていた観客でお茶を飲もうということになって、打ち上げにも
参加させてもらった。

打ち上げの場所は目白の素敵なお店だった。
そこの2階にピアノがあったので、他にお客さんがいなかったのを幸い、「ピアニスト」
が交替でピアノを弾くは、「ダンサー」が踊るは、コーラスに手話がつくは・・・と、もう
たいへん!

そうこうするうちに専属ピアニストの演奏時間がきた。
しかし、みんなじっと聴いているお客たちではない。ギターでコラボレーションしたり、
ピアノの伴奏をリクエストしてみんなで歌ったり・・・。

しとやかなアルバイトのピアノ弾きさんは、きっとたいへんだったと思う。にもかかわら
ず、リクエストに応えて楽譜をいろいろ探してきてくれたり、とっても親切な人だった。

何しろこの会、ミュージシャン、ダンサーとも、プロとセミプロみたいな人が大勢だから、
賑やかなだけじゃなく、良い雰囲気で盛り上がって、楽しくて贅沢なひとときだった。

しかし今日のコンサートのメインは、何といっても「子ども」だった。子ども達の何気ない
反応が空間の雰囲気をつくる。子どもがそこにいるだけで空間が和むというか、違うと
いうことを今日はとても感じさせられた。つまり、今日のコンサートは、子どものエネルギ
ーをみんなで分かち合うことを楽しみながら、おとなも元気になろう、みたいなコンセプト
だったのかな?私流に言えば。
私もうちの子ども達が小さかった頃のことを思い出していた。

打ち上げの時に、「ひとつ」という曲をクミちゃん姉妹が手話付きで歌ってくれた。
とても素敵な曲だった。また、手話の動作がこの曲にピタリとあって美しい。
また聴きたいと思った。
阪神淡路大震災の後に慰霊のために作られた歌と聞く。詞にも打たれた。

月並みな表現だけど、今日はいっぱい良い刺激をもらうことができた。
皆さんどうもありがとう。
(そしてこんなに自由に振る舞わせてくれたお店にも感謝です)

「今」という時間はある?

ふつう私たちが時間を考えるときに、時間には「過去」と「現在(今)」と「未来」がある、
と考えますよね。
ところが、この間ある本を読んでいたら、時間にあるのは、「過去」と「未来」だけで、
現在(今)はない。
というんです。
「今」にあるのは時間じゃなくて、「生きる」ということだけだと。

???、…??!、…?!!、!!!!

すごい!そうかもしれない!

「今」があるって思っている間は生きてないのかも。
生きてるときには「今」を意識しないから。
この場合の生きているは、自分自身でいることでしょう?ありのままっていうか。
何かに夢中になっているときは時間を忘れるって言いますよね。

だから、そうかもしれない。
生きているときには、時間は存在しない。
だから「今」にあるのは、「生きる」、それだけ。

私たちは過去のことを考えて、悔やんだり、未来のことを思って不安になったりする。
反対に、過去を振り返って反省したり、未来を思って予測したり計画を立てたりもする。
これらは必要なことだし、普通に生活していればどうしたってやらざるをえないことだとは思う。
だけどそうやって過去と未来を往復している間に、いつの間にか「今」が忘れられていく気がする。

過去や未来にとらわれすぎると、未来の予測や計画を実行するために
今があるような気がしてこないかな。
今を丸ごと生きたら、予測も計画も変わっていくかもしれないのに。

「『今』という時間はない、『今』にあるのは生きるだけ。」
このひとことは大事にしたい。

でもそれが、とてもむずかしいこともよくわかる。
永遠のテーマだろうなあきっと、私には…。

人のいのち、イルカのいのち

私の所にJMM(村上龍編集長のメールマガジン)から次のような文章が届いた。
肝心の本文ですが、長いので下を読んでください。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

タイ市民が、自分の身内をさておき観光客達をいかに客人として尊重して対応
したか、あの惨状の中で、そのことに接したメールの主の心情が語られている。
辛い現実にもかかわらずどこか救われるのは、あまりに一人の人間の生命が
いとも簡単に奪われる現実があまりに多く報道される中で、親切や優しさがもっ
とも厳しい状況のなかでも生きていることだ。

NHKのニュースで、津波によって湖に押し流された一頭のイルカを海に帰すため
に、いろんな国のボランティアが地元と協力して海に帰したことが、7時のニュー
スのトップで告げられていた。何と3日がかりでつかまえて海まで運び、離してや
った。男達の歓声の中には「遠くへ行けよ~」と声をかける者も。

その際、感激したのは、(実に当たり前のことなのだが、それを言われて感激して
しまう現状が悲しい。)
一人の地元の人だったか、要職にある人だったと思うがこんなことを言っていた。
「たとえ一頭でも、一人でも、生命は尊い。それは人間でも動物でも同じだ。
助ける価値はある。・・・」と。

我が国の首相に聞かせてやりたい言葉だと思った。
で、今日の7時のNHKニュースの出だしは○。
アナウンサーが「このコメントにご注目ください。」なんて言ってくれたら◎なんだけど。
なことあるわけないよね。

前置きが長くなりました。
下はJMMからのメールです。続きはhttp://ryumurakami.jmm.co.jp/

…………………………………………………………………………………………

『オランダ・ハーグより』 春 具               第106回
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「カオラックのひとたち」

 インドネシア一帯を襲った津波からほぼ2週間あまりが過ぎました。わたくしども
も知っているハーグのアメリカンスクールの先生がクリスマス休暇に夫婦でタイのカ
オラックに旅行に行き、そこで津波にあった。かろうじて戻ってきた彼女が同僚・友
人に宛てたメールが我が家にも届きました。アルレット・ステイプという中学生のク
ラスの担任で、ほかにもESL(English for Second Language )を受け持っている
先生です。ご主人のトムはバンジョーを弾く。「日本にも行ったことがあるよ」と話
す気のいい夫婦であります。以下はその彼女からのメールです。許可をもらって訳し
てみました。

ホッと一息

いやあ~、やっとホッと一息つけます!
仕事のサイトを一新できてよかった!

実は暮れもお正月もないような数日を過ごしていました。
もちろん大半は身内の詳しい者に頼んだのですけれど…。
きれいに作ってくれて、彼にも大感謝です!

そんなこんなで今日はドッと疲れが出てしまいました。
せっかくだからここへも書き込もうと思ったのに、
ダメです。気力が…。
ホームページくらいで今どきワーワー言うな、と言われそうですが、
私には大問題だったのです。なにしろパソコン苦手人間なので。

そんなわけで今日は好きな音楽を聴いてしばらくぼ~っとするつもり。
このところ毎日聴いているのが、シークレット・ガーデンの「You raise me up」。
気に入るとすぐ人に勧めてしまうのが私の悪い癖。
好みは人それぞれ、ですよね。

と言つつ、この曲が入っているCD「レッド・ムーン」もなかなかです。

ノルウェーとアイルランドの二人の音楽は、どこか懐かしく、日本のメロディーのよう。
いつまで何回聴いても飽きることのない、不思議な曲達です。

そうだ、ホームページに遊びに来てくださいね。
こちらでも、仕事のサイトの掲示板でもどちらでも大歓迎です。
お待ちしてます!

ではでは。

初夢…もう一つの世界

「音祭り」でまかれた種が、それぞれの人のところで、いろいろな方向に
芽を出して、どんどん人から人へと温かいつながりが地下水脈のように
広がっていったらステキだなあ。
もう一つの世界が人から人へ、心と心がつながって国境も人種の違いも飛び越え、
海を渡り地球を取り巻いていく。

いつだったか瞑想会でこんな瞑想のイメージをやった。
目を閉じて、自分のハートから光が広がるイメージを持つ。
光が自分を包む。

次第にその光は自分のハートから身体全体に広がり、そして自分のいる部屋
全体に広がっていく。やがて部屋から屋外へ、周辺地域へ、街全体へと広がる。
やがて地域から、さいたま市全体に、そして埼玉全体へ、日本全国へと広が
っていく。

やがて日本から海を越え、世界中、地球全体へと光は静かに広がっていく。
そしてやがて、地球全体が光に包まれる。
(その後、光は同じ順序でハートに戻ってくる)

このイメージを持ちながら、温かい人のつながりで地球を覆うことができる。
自分を信じて、人が手をつなぐことができれば。

それはテレビや新聞の話題にはならない。
ある日突然何かが大きく変わるわけではない。

でも、笑顔の人がいつの間にか増えたり、お年寄りが以前より親切にされる
ことが多くなったり、挨拶が今よりもっと交わされるようになったり、子どもたち
が公園で元気良く走り回ることが増えたり、みんなの眼差しが優しくなったり・・・。
嬉しい地下水脈が広がると、そんなことが起きる。

大きな目に見える変化はない。
でも確かに人の心に届き、やすやすと海を越え、世界の裏側まで届く。
目には見えない、でも確かにある。
希望を持って、夢を持って、人から人へと伝わっていく。

希望があれば人は伝えたくなる。
夢があれば人は伝えたくなる。
音楽で、ダンスで、絵やパフォーマンスで、
国境を越えよう、凍りついた心の扉を解かそう。

音楽でダンスで・・・。
静かに、地下水脈のように広げよう、もう一つの世界。
温かくつながって、喜びはひろがっていく。

………………………………………………………………

あざみ子さんが言っていた「地下茎」も同じようなイメージかな?
偶然ね。

「はるのかんたんふ」って

題名の「はるのかんたんふ」。
私の大好きな詩人、まどみちおさんの詩、「メダカ」からのイメージです。

こんな詩です。

………………………………………………………

     メダカ   
              まどみちお

はるが きたぞ
はるが きたぞ

はるの ほっぺたの
ぴっかぴかに

とびつけ くっつけ
ひっつけと

かんたんふたち
かんたんふたち

いっぱい いっぱい
いっぱい いっぱい


(「かんたんふ」は「!」のふごう)

………………………………………………………
以上、詩集『それから…』(まど・みちお 童話屋)より。

ささやかな、幸せのかんたんふを、たくさん見つけたい!

はじめまして

あけましておめでとうございます。

さて、何を書こうかと改まってしまうと、なんか緊張しますね。
なので手始めに、仕事のサイトに雑感として載せていたものを、
こちらに載せさせてもらいます。

下の①②がそれです。

①2004年12月25日
今日はクリスマス。埼玉は穏やかに晴れた一日でした。
私ものんびりと農協の直売所を覗いて野菜を買い込み、
料理などして過ごしました。

事務所の引っ越しもようやく一段落。
ブルーのインド更紗をかけた机に
お気に入りの絵本を飾って、
さて来年はどんな活動ができるかなと
夢を膨らませています。

ちなみに絵本は、
「ちいさいおうち」(バージニア・リー・バートン)
「はらぺこあおむし」(エリック・カール)
「ぼくのすきなやりかた」(五味太郎)などなど。

子どもや若者たちの新鮮なエネルギーや発想、
大事にしていきたいと思います。

②2005年1月1日
あけましておめでとうございます。
新しい年になりました。

今日、我が家で見つけたささやかな「新しいこと」。
バラを一輪花瓶に挿したまま、うっかり2、3日水を
換えるのを忘れていました。そうしたら何と、茎の一部から
フサフサと柔らかい葉が吹いてきているんです。
黄緑の葉っぱが3,4枚。艶やかで美しい黄緑。
まあ、こんなところに!

どうってことない話なんですけど、なんだかこの黄緑、
新年にふさわしいなあと思って…。
花は枯れてもしばらく楽しむことにしました。

どうか今年が幸せを分かち合える年でありますように
大切にしていきたいです。
それでは皆さま、どうぞ良いお年を!

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